【僕の声が聞こえてたら】男「良いニュースと悪いニュースがあるんだけど」彼女「・・・悪いニュースって?」。病弱な男は、彼女の為に真実を語れるのか・・・そして、病魔に冒された男が彼女に伝えたこととは・・・・

「ありがとうございました」

 

僕は椅子から立ち上がり、医者に背を向けて言った。

 

こんなところ、もう二度と来ない。

 

「気を落とさないでほしい。きっと助かる方法はある」

 

医者はしゃがれた声で、なぐさめるように無責任なことを言う。

 

どうも業務的な発言に聞こえるのは、

 

僕の気分が最悪に近いだからだろうか。

 

もう医者の顔を見たくなかったので、

 

「そうですね」と適当にあしらい、

 

振り返らずに早足で診察室を出た。

 

夢を見ているような気分だ。まさに悪夢だ。

 

ただでさえ僕は病院と医者が嫌いなのに、

 

病院で医者に余命を宣告されるなんて、悪夢以外の何物でもない。

 

真っ白な壁と医者の声に挟まれて、

 

ゆっくりと潰されているような、いやな感覚がした。

 

「で、どうだったの? 結果は」

 

彼女は待合室の硬いソファーから腰を上げながら言った。

 

彼女は僕の友達だ。もう二十年ほどの付き合いになる。

 

こういう場合は、幼馴染という表現のほうが適切なのかもしれない。

 

いや、腐れ縁ってやつか? とにかく、僕の大切な人だ。

 

彼女は昔からお節介な人だった。それは今でもまったく変わらない。

 

そのおかげで、いま僕は好きでもない病院に来ている。

 

何も左手の小指がもげただけで病院に来ることはない、と

 

僕は思ったが、彼女は病院に行くべきだと言い張った。

 

彼女はいつも正しい。僕はいつも間違っている。昔からそうだ。

 

それに僕は『押し』に弱い。不思議なことに、彼女に押されると尚更だ。

 

だから、いま僕はここにいる。そして今回も彼女は正しかった。

 

「結果は、良くはなかったね」

 

「そりゃそうでしょうよ。いきなり小指が千切れるなんて、どう考えてもおかしもん」

 

彼女はご立腹だ。「で、これからどうする? 入院して手術でもすれば治るの? それ」

 

「いや」僕はかぶりを振った。「もうこの病院には来ない」

 

「はあ?」彼女は怒りと呆れを喉から吐き出した。

 

「君が病院嫌いなのは知ってるけど、今回はそんなこと言ってられないよ?もっとさ、ちゃんと医者に診てもらわなきゃ。そもそも、なんて病気なの? 君」

 

「分からないんだ。なんて病気なのか、どうやったら治るのか。なにも分からないんだ」

 

「え?」

 

僕は深呼吸してから訊いた。

 

「君はいつも正しい。だから、ちょっと訊きたいことがあるんだ」

 

「何?」

 

「君は医者の言うことを信じる?」

 

「まあ、ある程度は」

 

「そうか。僕は信じないけど、君が信じるんなら、きっとそれは正しいんだろう」

 

「ねえ、大丈夫? どうしたの? 他にも何か言われたの?」

 

彼女の血色のいい頬から、だんだんと赤みが失せてゆく。

 

「あと一年と三日」僕は右手の指を三本立てて、弱々しく微笑んで見せた。

 

まだ夢を見ているような気分だった。

 

「あと一年と三日しか生きられないんだってさ、僕」

 

「なにそれ、三日って。つまんない冗談ね。エイプリルフールは一週間前よ」

 

彼女は引き攣った笑みをこぼした。

 

しかし、僕がばつが悪そうに頭を掻くと、

 

彼女の顔からふんわりとした雰囲気が消え失せた。「嘘でしょ」

 

「嘘みたいだろ。僕も信じてないけどさ、医者はそう言ったんだ」

 

「藪医者よ、そいつ。他の病院に行こう。もっと大きな病院にさ」

 

「そうだね」僕は肯定した。

 

「病院はいやだけど、このままじゃ気分が悪い。

 

もっとしっかり調べてもらわないとね」

 

「お、めずらしくその気だね。わたしは嬉しいよ」

 

彼女はちっとも嬉しそうじゃなかった。

 

「それに、僕はまだ死にたくない。まだやりたいことがあるんだ」

 

「やりたいことって、たとえば?」

 

「たとえば」僕は考えるふりをした。「まあ、とにかくいろいろだ」

 

「どうせ大したことじゃないんでしょ?」

 

「いや、すごく大したことだ」

 

「ふーん。まあ、そんなことは何でもいいよ」彼女は踵を返した。

 

「とりあえず外に出よう。病院ってなんだか息苦しい」

 

「同感だ」

 

自動ドアをくぐり、病院の外に出た。小鳥のさえずりが鼓膜を軽く揺する。

 

四月の空気は、まだ少し冷たい。

 

僕らは冷たい空気で肺を洗うように何度も深呼吸をした。

 

頭上の樹の葉には何粒もの水滴が付いてて、足元のアスファルトが湿っている。

 

ところどころに、小さな水溜りも見受けられた。

 

空は晴れ渡っているが、おそらく僕らが病院にいる間に雨でも降ったんだろう。

 

空には薄っすらと七色の橋が架かっていた。

 

「ほら、さっさと歩く」

 

彼女は僕の右腕を掴み、ぺったんこの靴でアスファルトを蹴りながら歩き出した。

 

彼女が脚を動かすたびに長いスカートが

 

ゆらゆらと揺れるので、歩きにくくないのだろうか、と思う。

 

「どこに行くの?」

 

煙草を銜えながら車椅子に乗った老人が、

 

僕らのほうを見てにやにやしていたので、

 

とりあえず僕は苦笑いを浮かべながら一瞥しておいた。

 

「どこって、病院に決まってるじゃないの」

 

「え、きょう行くの?」

 

「当たり前じゃない。思い立ったが吉日よ。なに? もしかして、明日行こうとか思ってたの?」

 

「うん」僕は嘘を吐くのが苦手なので、正直に言った。

 

「たぶん、君は明日になっても『ああ、めんどくさい。明日でいいや』とか思ってるね」

 

「よく分かってるじゃないか」

 

「もしかして馬鹿にしてる? 君、自分の小指が千切れたってのに、よくそんな平気でいられるね」

 

「そりゃ、びっくりしたに決まってるじゃないか。でもそんな、いきなり余命宣告されたって信じられないよ。なんだか夢を見てるみたいだ」

 

数秒の沈黙の後、「そうよね」、と彼女は肯定した。「悪夢みたい」

 

彼女は僕を引きずりながら駐車場まで歩き、僕を車の助手席に押し込んだ。

 

そして運転席に座り、エンジンをかけ、さっさと車を発進させた。

 

スピーカーから流れるベースの低音と、聞き覚えのある男性の歌声が、僕の内側に響く。

 

「悪いね。せっかくの休日に、わざわざこんなことさせちゃって」

 

僕は窓の外で流れる景色を漫然と眺めながら言った。

 

等間隔に植えられた街路樹。光の灯っていない街灯。

 

ペンキが剥げた歩道橋。濁った川。うんざりするほどの数のコンビニ。

 

ガソリンの浮き出た水溜り。長靴で跳ね回る子ども。赤く光る信号機。

 

医者の言葉を信じたわけではないが、飽きるほど見たような景色でも、

 

あともう数えられるほどしか見られないのかもしれないのかと思うと、

 

少し感傷的な気分にさせてくれるものだ。

 

「べつにいいよ。わたしも好きでやってるんだし。それに、君に死なれるとわたしが困る」

 

「どうして?」僕は彼女のほうを向いて言った。

 

『好き』ってのは何に対しての言葉なんだ、と

 

訊きたくて堪らなかったが、そのことについては黙っていることにした。

 

「ただでさえ少ないわたしの友達が、さらに少なくなっちゃうからね」

 

彼女はハンドルに凭れかかりながら言う。

 

「ああ」僕はふたたび窓の外へ視線を滑らせた。「それは困るね」

 

僕らはそれっきり黙り込み、スピーカーから鳴る音楽に耳を傾けた。

 

重い沈黙ではなく、心地の良い沈黙だった。

 

このまま、いつまでも病院に着かなけりゃいいのになんて、くだらないことを思った。

 

しかし、物事というのはそう都合良くは進まない。

 

しばらくすると、彼女が「はい、着いた」と小声でこぼしたので、

 

僕はゆっくりと車を降り、湿ったアスファルトを踏みつけた。

 

 

神様ってのは、気まぐれで理不尽で、不平等だ。

 

 

「で、どうだったの? 結果は」

 

彼女は待合室のソファーから腰を上げながら、

 

一字一句違わず数時間前と同じことを言った。

 

待合室には二十ほどのソファーがあるが、その半分以上が空席だ。

 

「やっぱり君の言ったとおり、あの病院の医者は藪医者だったよ」

 

「じゃあ、あの病院の診断は間違ってたの? よかったあ」

 

彼女は顔の筋肉をほぐし、大きく息を吐いた。

 

「うん。僕の余命は、あと一年と三日じゃなくて、あと一年と五日だった」

 

「は?」どうやら、彼女の顔の筋肉はふたたび凍りついたようだ。

 

「このままのペースで病魔が侵食してくると、僕は一年と五日で駄目になるんだってさ」

 

「嘘でしょ」

 

「嘘みたいだろ。いまの僕にできるのは、ホスピスでターミナルケアを受けることらしいよ」

 

「何、そのホスピスって。ターミナルケアって、なんなのよ?自分を賢く見せたいのか何なのか知らないけど、やたら横文字を使うやつって、わたし大嫌いなの」

 

「いや、医者が言ったんだから仕方ないだろう。僕も訊いたよ。ターミナルケアって何なんだって」

 

「で、何なのよ」

 

「終末期医療のことだって。末期癌患者やエイズ患者の人生の質(クオリティ・オブ・ライフ)を向上するために行う措置だとかなんとか。目的は延命じゃなくて、苦痛を和らげるみたいな感じらしいよ。ホスピスってのは、そのターミナルケアを行う施設のことで……」

 

「ふざけないで!」彼女の怒号が待合室に響く。

 

もともと静まり返っていた冷たい空気が、凍りついたような気がした。

 

誰もが口を固く結び、室内に響くのは、時計の針が時間を刻む音だけになる。

 

部屋中の視線が彼女に突き刺さったが、

 

当の彼女はまったく気にしていない様子だった。

 

「と、とりあえず、外に出よう。な?」僕は宥めるように言った。

 

「そうね」彼女は震えながら息を吐き出した。

 

そして、頭を掻き毟りながら早足で出口に向かう。

 

「ああ、もう! なんなのよ!」

 

あとで彼女に謝っておくべきなのかな。

 

自動ドアをくぐり、病院の外に出た。足元に敷かれた石は乾いていた。

 

この病院には三時間ほど滞在していたが、

 

おそらくその間はずっと晴れていたのだろう。気温も上がっている。

 

「ほら、早く行く」

 

彼女は僕の右腕を掴み、早足で歩き出した。少し怒っているように見える。

 

「え? どこに? もしかして、他の病院に?」

 

「そうよ。ここのも藪医者よ」

 

僕は携帯電話をちらりと見た。

 

「もうお昼の三時じゃないか。ご飯でも食べて少し落ち着こうよ」

 

「君、自分の命が危ないかもしれないのに、よくそんな平気でいられるね」

 

「僕、医者の言葉はほとんど信じてないからね」

 

「ああ、そう」彼女はため息を吐いてから、

 

「そうね。ちょっと落ち着いた方がいいかも」、と言った。

 

吐き出した言葉とは裏腹に、どこか苛立っているような雰囲気だ。

 

「病院なんか明日行けばいいじゃないか。きょうは君も疲れただろう。ちょっとゆっくりしようよ」

 

「なんで君のほうが余裕なの? もうちょっと危機感持ちなさいよ」

 

「大丈夫だよ。僕は死なない」

 

「だといいんだけどね」

 

彼女はそう言って、ふたたび僕を車の助手席に押し込んだ。

 

エンジンをかけると車は低く唸り

 

スピーカーからベースの低音と息を吐くような男性の声が流れ始めた。

 

「じゃあお昼、何が食べたい?」彼女は前を見たまま言う。

 

僕はなんとなく彼女の横顔を見た。

 

昔から何度も見ていたはずなのに、もしかしたら、あと数えられるほどしか見られないのかもしれないなと思うと

 

少し悔しい。そして、少しだけ怖くなった。

 

僕が死ぬだって? そんなのありえない。

 

頭ではそう思ってはいても、

 

絡みつく不安をすべて振り切ることはできなかった。

 

それどころか、彼女のことを見ていると、不安は風船のように膨らんでいく。

 

その風船は、いつか破裂するんじゃないかと思う。おそらく、萎むことはない。

 

そして風船が弾けたとき、僕は壊れてしまう。

 

肉体的にではなく、精神的に壊れてしまうような、そんな気がした。

 

そうなってしまった場合はどうしようか。

 

誰にも迷惑はかけたくないけど、たぶん僕にそんな器用なことはできない。

 

なら、どうする? 頭がぶっ壊れちまったら、僕はどうすればいいんだ?

 

「なに? わたしの顔見てぼーっとして。話、聞いてたの?」

 

「え、ああ。うん、聞いてるよ」彼女の声で僕の思考は遮られた。

 

「金星の話だっけ?」

 

「違う。何を食べたいかって訊いただけよ。馬鹿じゃないの」

 

「うーん、食べたいものか」

 

くだらない冗談が真っ先に脳裏を過ぎったが

 

それは内心に留めておくことにした。きっと怒られてしまう。

 

「スパゲッティが食べたいかな」

 

「うわ。ものすっごい普通」彼女は小さく吹き出した。

 

「何が面白いんだよ」

 

「いや、なんかね。君はいつも通りだなって」

 

「いいじゃないか。病魔とか余命とか、もう疲れた。やっぱり、いつも通りがいちばんだよ」

 

「そうね」彼女は笑いながら言った。「普段通りがいちばんだ」

 

 

「普段通りがいちばんだって言ってもね、だからって

 

その病気のことを無視していいってわけではないと思うの。わたしはね」

 

彼女は皿の上のあさりの貝殻をフォークで転がしながら言った。

 

「ほえもほおはえ」と、僕。

 

それもそうだね、と言ったつもりが、口いっぱいの麺に舌の進路を遮られてしまった。

 

スパゲッティってのは、どうしてこんなに美味いんだろうか。

 

「口の中を空にしてから話してくれる? いまの君、不細工なハムスターみたいだよ」

 

いい例えだ、と思ったのと同時に、それはハムスターに失礼じゃないかと思ったが、

 

どちらの言葉も黙って麺といっしょに咀嚼し、飲み込んだ。「うん。悪かった」

 

ファミリーレストランは想像以上に空いていた。

 

僕ら以外の客は、四人で駄弁っている学生らしき男たちと、女性二人組しか見当たらない。

 

きょうは平日だし、時間も中途半端なので、当然といえば当然かもしれない。

 

もう少し時間が経てば学生の下校時刻になるので、ここもいやというほど繁盛するだろう。

 

ならば、あの学生らしき男たちはなんなんだと思ったが、いまはそれどころではない。

 

自分の命と他人への興味を天秤にかけて、自分の目というフィルターを通して

 

それを見れば、結果は明らかだ。重いのは自分の命。僕の命だ。

 

「でさ、とりあえず訊きたいことがいくつかあるんだけど、いいかな」彼女は言った。

 

「あ、はい。どうぞ」

 

「このままその病気を放っておくと君の命が危ないってのは分かったんだけど、具体的にどうなるの?」

 

「いまは指が千切れたりするだけみたいだけど、いずれは脚とかも千切れるかもしれないって。千切れはしなくても、麻痺とか。まあ、医者の話がほんとうなら、身体はぼろぼろになるだろうね。仕舞いには感覚も死んでいくらしいし。視覚に、聴覚に、嗅覚に、味覚に、痛覚に……あと何かあったっけ? あ、触覚か?」

 

「もういい。分かった」彼女はゆっくりとこぶしを僕のほうに突き出しながら言った。

 

「じゃあ次の質問。小指が千切れちゃったけど、痛くないの?」

 

「痛くないよ。千切れるちょっと前から、皮膚の内側が

 

腐った木みたいにぼろぼろになってたみたいだ。

 

その時点で感覚は死んでた。痛覚も死んでたんだから、痛みも何もないよ」

 

「ちょっと待って」彼女は訝しげな視線を僕にぶつけた。

 

「つまり、前から小指の感覚がなかったの?」

 

「え、いや。まあ、一、二週間前から」

 

「なんでそのとき病院に行かなかったの?」

 

「病院が嫌いだから、です」僕は病院と怒った彼女が苦手だ。

 

いまの状況は、はたから見れば修羅場にでも見えるのかもしれない。

 

「はあ」彼女は呆れとも怒りとも取れるため息を吐き出した。

 

「まあいいや。どうせ治療方法はないんだし、行っても仕方なかったよね」

 

「そういうことにしておいてください」

 

「じゃあ、次の質問ね。君、これからどうするの?」

 

「どうするって」

 

「もし身体が駄目になったら、仕事もやめなきゃいけないし、介護も必要になるんじゃないの?」

 

「ああ」確かにそうだ。「全然考えてなかった」

 

「どうする? ホスピス行く?」

 

「それだけは絶対にいやだ。それに、僕が一年と五日後に死ぬと決まったわけじゃない」

 

「そうね」彼女は弱々しく微笑んだ。「君は死なない」

 

「そうだ」僕は無理やり笑顔を作った。「僕は死なない」

 

結局、僕らは何も答えを出さずに店を出た。馬鹿だ。大馬鹿野郎共だ。

 

その後、僕は彼女に自宅まで送ってもらい、

 

彼女は「次の休みにまた病院に連れて行くからね」

 

という捨て台詞を残して帰っていった。相変わらず、お節介なやつだ。

 

言い忘れたことがあったが、
わざわざ車を止めてまで
伝えるようなことでもないので、
そのまま黙っておくことにした。

 

どうせ、いずればれるだろうし。

 

僕は感覚のなくなった左腕を子どものようにふりながら、遠ざかる彼女を見送った。

 

遠方で沈んでいく太陽が、いままで見たことのないような鮮やかな光を放っているように見えた。

 

 

「で、どうだったの。結果は」

 

彼女は待合室のソファに座りながら、聞き飽きたフレーズを口にした。

 

彼女も言い飽きたんじゃないかと思う。

 

この病院の待合室も、他と変わらず閑散としていた。

 

「どこに行っても同じだよ。

 

今更、『助かりますよお!』なんて言われたら、

 

『うわ。こいつ藪医者なんじゃないか?』って疑うよ」

 

「そっか」彼女はため息を吐き出しながら項垂れ、ゆっくりと立ち上がった。

 

五月三日。僕らはきょう何件目かの病院を訪れていた。

 

ゴールデンウィークの真っ最中に病院を梯子している男女は

 

めずらしいんじゃないかと思う。彼女はわざわざ貴重な休日を割いて

 

僕を病院に連れて回ってくれているのに、

 

期待しているようなことはいまのところ何も起きていない。

 

どの医者も「残念ながら」という言葉から話を始めるのだ。

 

病気の発覚から約一ヶ月が経ち、僕の病状はゆっくりと悪化してきている。

 

左腕は完全に使い物にならなくなり、ついに先日腐り落ちた。

 

隻腕ってなんかかっこいいなとか思っていたけれど、不便でしかない。

 

そこで、ようやく僕は自らの置かれた状況を、なんとなく理解し始める。

 

霧のように曖昧模糊な存在だったそれは、

 

死という輪郭を持って僕の前に現れた。

 

いや、それは最初から目と鼻の先にあったが、

 

僕が今ごろになって気づいただけなのかもしれない。

 

最近は右足が重く感じるし、夜もあまり眠れなくなった。

 

心音がうるさくて、睡眠どころじゃない。怖いのだ。

 

それに、僕の内側の風船はものすごい速さで膨張している。

 

破裂するのも時間の問題じゃないかと思う。

 

仕事も辞めた。

 

おかげで膨大な時間を手に入れたが、何か大事なものを失った気がする。

 

そして、もともと狭かった交友関係の輪は更に狭まった。

 

フラフープからドーナツだ。仕舞いには指輪だ。

 

当たり前だが、給料も貰えなくなった。

 

少ない貯金で一年を乗り切れるような気はしないが、仕方ない。

 

奇病なのに死因は飢餓とかにならなきゃいいな、と他人事のように思った。

 

ガラス戸を押し、病院の外に出た。

 

すでに太陽は完全に姿を隠し、暗い空では

 

月がアスファルトを睨みつけるように光を投げている。

 

足元の石畳は虫塗れの街灯に照らされ、不気味に浮き出ているように見えた。

 

もう五月になるというのに、空気は未だに冷たい。いや、僕の感覚がおかしいのか?

 

全身に叩きつけるいやな風が、僕を震えさせた。

 

「また、明日にしよう」僕は言った。

 

「そうだね、帰ろう」と、彼女。「あ、晩ご飯はどうする?」

 

「僕は、まあ適当に」

 

「なにそれ、わけ分かんない。いっしょに食べに行こうよ」

 

「そうできたらいいんだけど、恥ずかしいことにお金がね」

 

さすがに夕食の分くらいは持っているが、先のことを考えると懐が寒い。

 

「仕事、辞めちゃったのよね。うーん」

 

彼女は腕を組んで思考を巡らせた。

 

ここで「奢ってあげよう」とは言わないのが彼女だ。

 

僕は彼女のそういうところが気に入っている。

 

「お!」しばらくすると、彼女は目を輝かせ、「いいことを思いついた」と言った。

 

『いいこと』というのは、思いついた本人にとっては素晴らしいアイデアなんだろうが、

 

周りから言わせて貰えば大抵の場合、それは『いいこと』ではない、と思う。

 

しかし今回は例外だった。「わたしの家で食べよう」

 

「それはつまり、どういうこと?」

 

「わたしが料理を作って、わたしと君がそれを食べるってこと」

 

「それは嬉しいけど、きょうは君も疲れてるだろうし、悪いよ」

 

「いいよ、わたしが好きでやってるんだし。じゃあ決定ね」

 

彼女はそう言うと、軽やかな足取りで車に向かった。

 

揺れる長いスカートが、ものすごく邪魔そうに見える。

 

僕も彼女の後を追うように、のろのろと歩きだした。右足が重くて、歩きづらい。

 

彼女に追いつくと、いつものように車の助手席に座り、シートに凭れた。

 

彼女はいつものように運転席に座り、エンジンをかけた。

 

スピーカーから聞こえてくる男性の声も、いつもと変わらない。

 

変わっていくのは、僕の見た目だけだ。

 

いつかは怪物のようになってしまうのかもしれない。

 

もしくは、脚も、腕も、全部腐って、

 

延々と涎を垂らし続ける達磨みたいになってしまうのかも……。

 

「どうしたの? 顔色悪いよ。窓開けようか?」

 

「ああ、いや」彼女の声により、意識が妄想の世界から帰ってきた。

 

なんてことを考えてたんだ、僕は。

 

「君がほんとうに料理できるのか心配していたんだ」

 

「失礼な。できるよ」彼女は少しふくれた。「心配して損したかも」

 

「心配してくれてありがとう」僕は窓に映る彼女の顔を見ながら言った。

 

返事はなかった。

 

 

彼女の家は、十階建てマンションの十階にあった。

 

僕はここで、エレベーターのありがたさを改めて思い知る。

 

彼女が鍵を挿し、扉を開けると、まず最初に感じたのが甘い匂いだった。

 

なんだか落ち着かない匂いだ。でもやっぱりこの娘も女の子なんだなと、しみじみ思った。

 

靴を揃え、彼女の後を追い廊下を渡ると、リビングにぶつかった。

 

リビングの中心辺りにはローテーブルとソファーがあったが、

 

僕はとりあえず、ローテーブルの脇の床に腰を下ろした。

 

リビングの隣はキッチンだ。そこから彼女の鼻歌が聞こえてくる。

 

部屋を見渡しても、どこもかしこも小ざっぱりしていて、やはり落ち着かない。

 

女の子らしいといえばそうなのかもしれないが、何か僕のイメージとは少し違っていた。

 

僕の中の『彼女像』は、子どものときの無邪気な彼女のままで止まっていたのかもしれない。

 

当たり前だが、彼女は歳をとり、大人になったのだ。

 

僕はどうなんだろう。なんとなく、そう思った。

 

思考がふたたび妄想の世界に飛び込もうとしたところで、キッチンから彼女の声がした。

 

「どうしたの、ぼーっとして。

 

そんな猫みたいに背中丸めてないで、もうちょっと寛げばいいのに」

 

「無茶言うなよ、寛げだなんて。僕は女の子の家に上がり込んで、

 

いきなりリビングで寝転び出すような男じゃないよ」僕は適当なことを言い、

 

それから真横に身体を倒し、絨毯の上に寝そべった。

 

「馬鹿じゃないの」彼女は微笑んだ。

 

「ちゃっちゃと作るから、そこで寝転んでて」

 

「うん」僕はなんだか嬉しくなった。「ありがとう」、と言うと、

 

「どういたしまして」と素っ気ない返事が返ってきた。

 

僕は余韻に浸り、甘い匂いに包まれながら、いつの間にか微睡んでいた。

 

落ち着かないとか思っていたのは何だったんだろうか。

 

目を覚ましたのは、それから三十分くらい経ってからだった。

 

「ほら、起きて。冷めちゃうって」

 

ゆっくりと瞼を開く。細長い視界に映ったのは、彼女の白い足だった。

 

彼女は僕の隣に座りながら、僕の頬をぺちぺちと叩いているようだ。

 

ものすごくいやな夢を見ていたが、そんなことはどうでもよくなった。

 

「ねえ、痛いんだけど」僕は床に顔をへばりつけながら言った。

 

「あ、起きた? ほら、晩ご飯冷めちゃうよ」

 

「うん、ごめん。あと、そろそろ頬を叩くのをやめてくれないかな」痛い。

 

「だってこうしてないと、君、また寝ちゃうでしょう」

 

「よく分かってるじゃないか……」僕はゆっくりと身体を起こした。

 

右腕だけで起き上がるのは未だに慣れない。

 

ほんの数秒だが、いままでよりも少し時間がかかってしまう。

 

「君の寝起きの顔、おっさんみたいだね」

 

彼女は吹き出した。「二十代には見えないよ」

 

「うるさいな」僕はテーブルの上に目をやった。

 

「で、君は何を作ってくれたのさ」

 

「スパゲッティです」

 

「それは素晴らしい」味は大丈夫なのか、と密かに思ったのは内緒だ。

 

しかし、実際に口に入れてみると、称賛の言葉しか出てこなかった。

 

「美味い」

 

「参ったか」彼女は誇らしげに言った。可愛らしいハムスターのようだ。

 

「参った参った」

 

「ちょっと気になってることがあるんだけど」

 

彼女は唐突に言う。「いま訊いてもいいかな?」

 

「ん、ほうほ」僕は不細工なハムスターらしく麺を頬張っている。

 

すぐに咀嚼し、飲み込む。「何?」

 

「なんでそんなに病院が嫌いなの?」

 

「なんでって、昔いろいろあったんだよ。あんまり言いたくないな」

 

「良いじゃないの。君とわたしの仲じゃない」

 

どういう仲なんだ、と思ったが、黙っておくことにした。

 

代わりに、僕は渋々と昔話を始めた。

 

「……昔ね、脱水症状だったかな? まあ、詳しいことは忘れたけど、

 

身体の調子がものすごく悪かったことがあってさ。

 

それで、そのときに近くの病院に行って

 

点滴をしてもらったんだ。わざわざ手の甲に注射器を刺して、大げさなんだよ」

 

小学二年生の頃だ。

 

喚き散らす僕を母が押さえつけ、医者が手の甲に注射器を刺した。

 

痛くて堪らなかった。

 

部屋中の人間が敵に回ったように見えたのを未だに憶えている。

 

そこで僕は、子どもながらに「もう二度と点滴なんて受けるものか」という

 

ちっぽけな決意をしたが、このあとも

 

二回ほど手の甲に注射器を突き刺すことになった。現実は非情だ。

 

脳のほぼ真ん中に近い位置で、その記憶は居座り続けている。

 

さっさと消えてほしい苦い思い出だ。

 

「それで?」

 

「え、いや。……それだけです」

 

彼女の期待を裏切るようで、何か悪いことをしているような錯覚に陥った。

 

同時に、ものすごく恥ずかしい。視線は自然と下に向かっていた。

 

「え?」彼女は呆れを隠しもせずに言った。

 

必死に笑いを堪えているようだが、口元が緩んでいる。

 

「それはつまり、点滴が怖いってこと? だから病院が嫌いなの?」

 

「そうです、そうですよ」僕はいじけた子どものようにぼそぼそと言った。

 

「え? ほんとうにそれだけなの?」

 

「そうだよ! わざわざ確認しないでくれ! だから言いたくなかったんだ!」

 

「え? え? 病院嫌いって、え? 点滴が怖いからなの? 女の子かよ!」

 

彼女は吹き出した。仕舞いには腹を抱えて床に転げた。

 

僕はそれを横目で見ながら、やけくそで冷めたスパゲッティを頬張った。

 

彼女の分も勝手に食べてやった。

 

悔しいが、美味い。

 

続く

 

 

「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ」僕は立ち上がった。

 

時計の針は午後九時を指し示している。

 

カーテンは閉じきっているので外は見えないが、おそらく真っ暗なのだろう。

 

「どうやって帰るの?」

 

彼女は膝を抱えながらソファーに座っている。

 

「どうやってって、電車しかないだろう。懐が寒いって言っても、流石に電車賃くらいはあるよ」

 

「ここから駅までは遠いよ? 大丈夫? 怖くない?注射器持った医者がうろついてるかもよ? ふふ」

 

「おちょくってるのか? それともあれか。君が駅まで送ってくれるのかい」

 

「やだ。めんどくさい」

 

「だよね」

 

「泊まってけばいいじゃないの」

 

「どこに」

 

「ここに」彼女は床を指差した。

 

「それはちょっと」

 

「いやなの?」

 

「いやじゃないけど、ほら。着替えとか布団とかないしさ」

 

「そのままでいいじゃない。布団なら、わたしのがあるし。わたしはソファーでも寝られるよ」

 

「ちょっと待ってくれ。そういうことじゃないだろう。それに僕だってソファーで寝られるよ」

 

「病人は病人らしく布団で寝なさいよ」無茶苦茶だ。

 

「いやいや、君の布団で僕が寝るってのか。それはまずいだろう。じゃなくて、君に悪いだろう」

 

「何がまずいのよ。わたしがいいって言ってるんだからいいのよ。はい、決定ね」

 

駄目だ。勝ち目がない。僕はため息を吐いた。

 

彼女は昔から自分の考えは曲げない人間だった。

 

そして僕は押しに弱い。

 

「分かった、分かったよ。きょうはここに泊まらせてもらうことにする。でも僕はソファーもしくは床で寝るよ。ここだけは譲れない」

 

「うーん。そこまで言うならいいけど、理由を聞きたいかな」

 

「理由って、当たり前だろ。寝られるわけないだろ」

 

「だから、なんで寝られないのって訊いてるんじゃない」

 

「なんでって、男はみんなそうなんだよ」僕は適当なことを言った。

 

「ほー」彼女は膝を抱えたまま、ソファーの上で前後に揺れ始めた。

 

「男だって。女の子みたいなのにねえ?」そして小さく吹き出した。「点滴って。ふふ」

 

「その話はもういいだろ」

 

「そうだね」彼女はまだにやついている。

 

「じゃあお風呂にでも入ってさっさと寝よう。きょうは疲れた。身体が重い。あ、先に入る?」

 

「僕は別に入らなくても大丈夫だけど」

 

「君は良くてもわたしは良くないの。あ、いっしょに入ってあげようか?」

 

「馬鹿じゃないのか」心臓が爆発するかと思った。

 

「冗談よ」彼女は廊下のほうに歩いていった。

 

結局、彼女が先に入り、あとで僕が入ることになったらしい。

 

片腕を失ってからは、ほとんど湯船に浸かっていない。

 

左腕がもげた断面は腐った木のようになっていて、

 

水につけると木屑のようにぼろぼろと、

 

かつて肉だった焦げ茶色のものが皮膚の内側から毀れ落ちてしまう。

 

痛くはないが、見ていてあまり気持ちのいいものじゃない。

 

それでも湯船に浸かっていいのだろうか。

 

という旨を風呂上りの彼女に話すと、「断面にこれを巻け」と言って、

 

輪ゴムとビニール袋を渡された。腕に袋を被せて、ゴムで止めろということらしい。

 

なるほど、これなら大丈夫だなと思ったが、自分ひとりではなかなか巻けない。

 

僕は不器用だ。なので嫌々ながら、彼女に巻いてもらうことにした。

 

彼女にこんなの見せたくなかったけど、仕方ない。

 

僕はシャツを脱ぎ(これも地味に時間がかかる)、上半身裸になった。

 

彼女の視線は、かつて僕の左腕があった場所に伸びている。表情は明るくない。

 

なんだか申しわけない気持ちになった。

 

「ごめんよ、変なの見せちゃって。気持ち悪いだろ」

 

「いいよ、べつに。お風呂が腐った肉片塗れになるよりはマシよ」

 

「そう言ってくれるとありがたい」

 

「ねえ、ほんとうに痛くないの? これ」

 

彼女はおどおどとしながら、僕の左腕の断面を覆うようにビニール袋を巻きつけた。

 

「大丈夫だよ」

 

「それならいいんだけど」それから、ビニール袋の上に輪ゴムを巻きつけた。

 

ぱちん、と心地良い音が鳴る。「はい、できた」

 

「悪いね」僕は暗い廊下を歩き、風呂場に向かった。

 

 

「どうだった? 久しぶりの湯船は」

 

彼女はソファーの上で膝を抱えて座りながら言った。

 

ときどき欠伸をこぼし、眠そうな顔をしている。

 

僕は先ほどまでと同じ服を着て、リビングに戻ってきていた。

 

さっきと違うことといえば

 

頭に甘い匂いのするバスタオルを引っ掛けていることくらいだ。

 

「全然落ち着かなかったよ」

 

「どうして?」

 

「当たり前だろ。男はみんなそうだよ、たぶん」身体が硬くなってしまう。

 

「君は女の子みたいなのにね」

 

「君には負けるよ。そんな可愛らしいパジャマなんか着ちゃって」

 

「そうでしょう、可愛いでしょう。惚れちゃった?」

 

「惚れた惚れた。べた惚れだよ」

 

「じゃあ結婚する?」

 

「それは、また、考えておくよ」心臓が爆発するかと思った。

 

「なんでそこだけそんなに真面目に答えるのよ。冗談じゃないの」

 

「いや、そんなに怒らないでくれよ。悪かった」

 

「いや、なんで謝るのよ。はあ。なんか調子狂うね。疲れてるのかな」

 

「たぶんそうだよ。君、きょうはちょっと変だ。僕も疲れた」

 

この家に来てからは異常に疲れた気がする。

 

「だね。きょうはもう寝ることにする」彼女は廊下に向かった。寝室に行くらしい。

 

「おやすみ」僕は欠伸をしながら軽く手を振った。

 

それから、ソファーに座り込んだ。

 

そこで彼女は立ち止まった。

 

「ねえ。ほんとうにソファーで寝るの? まだちょっと寒いよ?」

 

「大丈夫だって。どうってことないよ」

 

瞼が重い。思考が停止しかけている。僕の意識はほぼ半覚醒の状態だった。

 

「ほんとうに大丈夫? 風邪引いちゃうんじゃないの?

 

わたしは君といっしょの布団で寝てもいいけど、どうする?」

 

沈黙。

 

「ごめん。やっぱりいまのは無しで。忘れて」

 

彼女は沈黙に耐え切れなくなり、すぐに口を開いた。

 

「そうか。そりゃ、残念だ」僕はそう言い残して、微睡みの中に落ちた。

 

翌、五月四日。

 

僕は窓に撃ちつける雨音に揺さぶり起こされるように目を覚ました。

 

閉め切ったカーテンの隙間から、いまにも消えてしまいそうなひょろ長い光が伸びている。

 

時計の針は五時半を指していた。久しぶりにぐっすりと眠れたようだ。

 

しかし、まだ彼女は寝ているだろう。きょうも休日なので、彼女のことは放っておくことにした。

 

知らぬ間に僕にかぶさっていた毛布を払いのけ、カーテンを開ける。

 

窓の向こう側は夜を思わせる暗さだった。

 

空は濃灰色の雲に覆われていて、そこから滝のように水が降ってきている。

 

遠くで弱々しく明滅する街灯の光が、まるでモールス信号で助けを求めているように見えた。

 

せっかくのゴールデンウィークなのに、出かける予定だった人は気の毒だな、と思った。ざまあみろ、とも。

 

いつから僕はこんな卑屈なやつになってしまったんだろう。

 

カーテンを閉じ、毛布に包まってソファーに座り込んだ。

 

暗くじめじめした部屋で、ひとり。

 

これがいまの僕の本来あるべき姿なのかもしれない。

 

そう考えると、昨日の幸せだった時間から、

 

現実に引き摺り下ろされるような感覚に陥った。

 

雨音がさっきよりも大きく聞こえる。

 

稲光がカーテンの隙間から入り込み

 

数秒後に猛獣が唸るような低い音が空気を揺らした。

 

冷えた空気は皮膚を刺すようだ。

 

暗闇と孤独に押しつぶされそうになり、僕の中の風船は膨張を再開した。

 

何かに責められているような気分だ。

 

やめろ。やめてくれ。

 

僕は必死に頭を振り、脳を攪拌してぐちゃぐちゃにしてしまおうと試みたが、無駄だった。

 

やめてくれよ。

 

雨音は無視できないほどの轟音を響かせながら、アスファルトに叩きつけている。

 

もう何も聞きたくない。

 

耳を塞いでそれを遮ろうと試みたが、僕には手がひとつだけ足りなかった。

 

駄目だ。考えるな。考えないようにはしていたが、

 

僕にはそれを無視できるほどの強い意志は備わっていなかった。

 

無理だ。

 

思考は簡単に自分の深い部分に落ちた。

 

僕はほんとうに死んでしまうのか?

 

もう彼女には会えなくなるのか?

 

家族にこのことを伝えるべきか?

 

いつまでこんな幸せな日が続けられるんだ?

 

誰かに迷惑をかける前に、さっさと死んでしまうべきなのか?

 

決壊したダムから噴き出す水のように、僕の脳から疑問が溢れ出した。

 

いまや僕にとって、死というのは遠いものではない。

 

向こうはゆっくりと、僕の心臓に手を伸ばしている。

 

寿命については未だに半信半疑だが、

 

左腕が腐り落ちたことにより、「自分の命が危ない」ということだけは強く理解した。

 

「ああ、僕は死ぬのか。大変だなあ」、と他人事のように思っていたが、

 

そろそろそういう風にはいかなくなった。

 

医者の言葉がほんとうなら、僕に残された時間はもう一年もない。

 

だからって、何かが変わったわけじゃない。何も分からないままだ。

 

どうしたら元の生活に帰ることができるのか、残された日をどう使うべきか、

 

僕はそのどちらについて考えるべきなのか、それすらも分からない。

 

ひとりで大丈夫だ、と二十歳になった頃は思っていたが、

 

結局肝心なときは全然駄目だった。僕ひとりじゃ何もなせない。

 

心細くて、それこそ死んでしまいそうだ。

 

助けてほしい。

 

彼女は僕を見捨てずに助けてくれるだろうか。

 

彼女の前ではできるだけ明るく振舞っていよう、と決めていた。

 

そうしていないと、彼女は僕から遠ざかっていくんじゃないかと、そんな気がしたから。

 

彼女はそんなやつじゃないとは分かっていても、

 

どうしてもそう考えずにはいられなかった。

 

僕が壊れていくのと同じ速さで、僕の大事なものは失われている気がするから。

 

気づかないうちに、ゆっくり、ゆっくりと――。

 

でも彼女だけは。彼女だけは変わらずにいてくれる。

 

そう信じるしかなかった。情けないことに、頼れるのは彼女しかいない。

 

両親や妹は、きっと僕のことなんていなかったかのように扱うだろう。

 

僕に閉じこもっていた時期があったというのは、家族にとっての恥らしい。

 

毛布に包まって縮こまって

 

思考を自分の深いところに沈めていると、堪らない気分になってくる。

 

「なんだこれ。泣きそうだ」僕は思わず小声でこぼした。

 

声に出して言わないと、崩れてしまいそうだった。

 

「なんだよ、これ……」

 

左腕があったはずの場所に、針が刺さったような痛みが走る。

 

僕は頬と毛布を濡らしながら、暗い部屋で自分の殻に籠った。

 

彼女はまだ起きてこない。

 

時刻は午前五時四十五分になろうとしていた。

 

 

目覚めてから二時間が経った。

 

僕は未だにソファーに座り込んでいる。

 

雨は依然として降り止まない。それどころか、勢いを増してきた。

 

彼女はいつ起きてくるのだろう。起こしに行ったほうがいいのかな。

 

そんなことをぼんやりと考えていると、テーブルの上で携帯電話が小刻みに震え始めた。

 

僕の携帯電話だ。ゆっくりと手を伸ばし、画面を見た。

 

どうせ仕事も辞めたんだからさほど重要な電話でもないだろうし、無視してやろうかと思ったが、

 

画面に表示されたのが彼女の名前だったので、すぐに出た。

 

「もしもし? どうしたの?」

 

『うん。あの、まだわたしの家にいる?』

 

電話の向こうの彼女の声は、なんだか弱々しかった。

 

「うん。いるよ」

 

『ちょっと、助けてほしいかな。身体が重くて動かないの』

 

「分かった」

 

僕はさっさと電話を切り、早足で薄暗い廊下を渡って寝室に向かった。

 

寝室の戸を開ける。十畳ほどの空間には

 

いくつかの家具が配置されていたが、

 

真っ先に僕の目に入ってきたのは

 

頬を真っ赤に染めながらベッドに横たわる彼女の姿だった。

 

「大丈夫?」僕は訊いた。

 

「大丈夫……じゃないかも」彼女は弱々しく息を吐き出して笑った。

 

「たぶん、ただの風邪だけど」

 

「僕じゃなくて、君が風邪を拗らせちゃったのか」

 

「情けないよね」

 

「昨日の病院で誰かから貰ってきたのかな。もしそうだったらごめんよ」

 

「別に、悪いのは君じゃないでしょ」

 

彼女は大きく息を吐き出した。それから咳き込んだ。

 

「つらそうだね。病院行く?」

 

「やだ」彼女は窓の方を見ながら言った。「こんな雨の中出かけたくない」

 

「そんな子どもみたいなこと言ってる場合じゃないよ」

 

「点滴怖い男の君にだけは言われたくなかったなあ」

 

「それもそうだね」僕は頭を掻いた。「氷枕でも持ってこようか?」

 

「いや、いらない。カーテンを開けてほしいの」

 

僕は彼女の指示通り、カーテンを開けた。

 

窓の向こうは相変わらずの雨模様だった。「これでいいの?」

 

「うん、ありがと。あとはそこでじっとしてて。できるだけこの部屋から出ないで」

 

「え? どうして?」

 

「風邪、うつらないかなって思って。君にもこの苦しみを味わってもらいたい」

 

「そっか」

 

部屋に響くのは、雨音と時計の針が時間を刻む音だけになった。

 

僕は、この沈黙が醸し出す不思議な心地良さが好きだ。

 

この、彼女といるときだけに感じる例えようのない空気が好きで堪らない。

 

僕も彼女も口を閉じ、小さな窓から外の景色を眺めていた。

 

ガラスにへばりついた雨粒のおかげで向こう側はほとんど潰れて見えたが、

 

僕らは窓から視線を外さなかった。

 

しばらくそうしていると、彼女が口を開いた。「雨ってさ、なんかいいよね」

 

「そうだね。音とか、傘とか、なんか独特の雰囲気があるというか」

 

「わたしは音と、どっかから垂れてきた雨粒が葉っぱにぶつかって、

 

その葉っぱが大きく揺れてるのを見るのが好きかな。なんか面白いの。

 

あと、蜘蛛の巣に引っかかった雨粒とか、綺麗だよね」

 

「マニアックだね」

 

「虹とか水溜りとかも好きだよ」

 

「僕も好きだけど、雨の日は洗濯物を外で干せないのがつらいよね」

 

「うああ」彼女は謎のうめき声を発した。

 

「そういや、洗濯機回さなきゃ……。ああ、もう明日でいいや……」

 

そこで僕は煩悩を超高速で回転させた。

 

「もしかして、いま僕が脱衣所に行けば、君の下着を拝めるのかな」

 

「そうだね……。拝んでも嗅いでも使ってもいいけど、なるべく汚さないでね……」

 

「使うって……」僕は苦笑いを浮かべながらも、例のごとく心臓が爆発するかと思った。

 

まさかそんな返事をもらえるとは。どうやら彼女は相当参ってるらしい。

 

「冗談だよ」僕は続けて言った。「なんか、君らしくないね」

 

「そうかな」

 

「昨日もちょっと変だったし。あ、もしかして、風邪のせいだったのかな」

 

「さあ」彼女は真っ赤な顔で、弱々しく微笑んだ。「どうかな?」

 

部屋に響くのは、ふたたび雨音と時計の音だけになる。

 

しばらくすると彼女は滔々と話し始める。僕はそれを聞く。

 

それらを何度も繰り返しているうちに、仕舞いには昼になってしまった。

 

僕(不器用)は苦戦しながらお粥を作った。

 

彼女はそれを訝しげな表情を浮かべながら食べてくれた。

 

「レトルトのご飯の味がする」というありがたいお言葉を貰えたので、よしとしよう。

 

昼食を終えた僕らは午前中と同じように、ひたすら他愛無い話をした。

 

過去の話。現在の話。そして、未来の話。

 

僕にとっては未来の話だけが、少しだけ遠くに感じられた。

 

手を伸ばしても、そこまであと数ミリという位置で、そいつは笑っている。

 

だから僕は、彼女が黙る度に考えてしまった。

 

いつまでこんな幸せな日が続けられるだろうか?

 

雨粒が窓を叩く勢いは弱まってきたが、未だに雨は降り続いている。

 

窓の外には、夜の暗さが降ってきていた。

 

「夜だね」彼女はふたたび話し始めた。

 

「うん。誰がどう見たって夜だ」と、僕。

 

「きょうはごめんね。一日中付き合わせちゃって」

 

「謝らなくていいよ。僕が好きでやってるんだし」

 

「そうだっけ?」

 

「そういうことにしておいてあげよう」

 

「ありがとう」彼女はゆっくりと上体を起こした。「すっかり良くなった」

 

「そりゃ良かった」

 

「どうする? もう帰っちゃうの?」

 

「どうしようかな」帰りたくない。子どものように、思った。

 

しかし彼女は僕の頭の中を見透かしたかのように言う。

 

「わたしは明日まで休みだし、きょうもここに泊まっていけば?」

 

そこで僕は無意識のうちに、「いいの?」と訊いてしまった。

 

「なに? もしかして泊まりたかったの?」

 

「いやあ、実はそうなんだ」僕は嘘を吐くのが苦手なので、正直に言った。

 

「ほー」彼女は膝を抱え、前後に揺れ始めた。

 

「そんなにわたしの下着を拝みたいのかあ」

 

「そりゃもう。夜も眠れないほどだよ」

 

「見せてあげようか?」

 

「ほ?」最近気付いたのだが、どうやら心臓は爆発しないらしい。

 

「いや、冗談だよね?」

 

「冗談に決まってるじゃないの」

 

「だよね」

 

 

五月五日。

 

垂れ込めた雲の隙間からこぼれ落ちるような細い雨が、未だに降り続けている。

 

水溜りに幾多もの波紋を作り、アスファルトを濃い灰色に染め、

 

ぱちぱちと何かが弾けるような音を響かせる。

 

昨夜で止むんじゃないかと思っていたが、なかなかしぶとい。

 

僕は昨日と同じように、リビングのソファーに座り込んでいる。

 

しかし、昨日とは違って、身体が異常に重く感じられた。

 

動くのもめんどくさいと思えるほどの倦怠感に、外も内も支配されている。

 

それに、身体中が熱い。特に顔が。いったい、どうなってるんだ。

 

という旨を、隣に座っている彼女に伝えると、彼女は「ごめん」と呟いた。

 

「おめでとう。どうやら君の風邪は僕にうつったらしい」僕は咳き込んだ。喉が痛む。

 

「ほんとうにごめん。そんなつもりじゃなかったの」

 

予想外の反応に、思わずたじろいだ。

 

「え、いや、そんなに謝らないでくれよ。

 

別に君を責めようと思ったわけじゃないんだ。ごめんよ」

 

「うん……」彼女はそれっきり、黙り込んでしまった。

 

膝を折り、クッションを抱きかかえながら、それに顔を埋めている。

 

「きょうの君も、ちょっと変だよ。昨日とはまた違う感じだけど」

 

「そうかな」

 

「うん。なんかあれだね」僕は少し考えてから言った。

 

「まるで女の子みたいだ」

 

「失礼な。わたしは女の子よ」彼女は脹れた。

 

「そうそう。そんな感じだ」

 

「何がよ」

 

「いつもの君だ」

 

僕はとりあえず、その場から立ち上がろうと右手に力を込めた。水が欲しい。

 

しかし、手に上手く力が入らなかったのか、

 

もしくは無意識が彼女に近寄ることを望んでいたのか、

 

僕の身体はバランスを崩し、彼女の肩に寄りかかる形になった。

 

「ご、ごめん」

 

僕は急いで元の体勢に戻ろうとしたが

 

腕が二本あるのと一本しか無いのでは、それにかかる時間には差が生まれる。

 

「別にいいよ。そのままでも」彼女はぽつりと言った。

 

「え?」ふたたび右手の力が抜け、彼女に寄りかかる形になる。

 

「そのままでいてもいいよ。わたしはどこにも行かないから」

 

彼女は身動きひとつせずに言うと、黙り込んだ。

 

僕は彼女の言葉に甘え、ぼーっと肩に寄りかかっていたが、

 

頭は疑問と心配事と彼女の髪の匂いでいっぱいだった。

 

彼女には、僕の心音が聞こえてるのか?

 

僕の体温が伝わっているのか?

 

僕の顔が異常に火照っていることに、彼女は気付いているのか?

 

僕の皮膚の内側で燻っている思いは、気取られていないのか?

 

熱でぼんやりとする頭で何度も同じことを考えたが、

 

当然のように答えは見つからなかった。

 

僕のような人間に、他人の気持ちを理解することはできない。

 

雨音だけがしばらくの間、リビングを埋め尽くしていた。

 

沈黙がたっぷり十分以上続いた後、彼女は口を開いた。

 

「きょうは泊まっていって」

 

「いいの?」

 

「うん。風邪うつしといて、それをひとりで帰らせるって、わたし最低じゃないの。わたしは明日まで休みだから大丈夫だし。それに」彼女はそこで口を噤んだ。

 

「それに?」

 

「君が隣にいるとね、すごく落ち着くの」

 

彼女は黙る。僕は考えた。

 

いつまでこんな幸せな日が続けられるだろうか?

 

 

七月七日。

 

カーテンの隙間から射す朝の光と、窓を通り抜けて

 

鼓膜を揺らす蝉の鳴き声に嫌気が差し、僕は上体を起こした。

 

ここから、僕の長い夏休みは始まる。

 

夏休みか。

 

今更になって、また夏休みなんてものを体験できるとは。

 

なんて、自分を騙すように苦笑したが、気分は暗くて重かった。

 

学生だったころとは、何もかもが違いすぎている。

 

楽しかったなあ。昔は何をして遊んだっけ。

 

気を紛らわすために記憶を手繰ってみたが、何も思い出せなかった。

 

残っていたのは、「楽しかった」という漠然とした感想だけだ。

 

あのころのみんなは、いまはどこでどうしているんだろうか。

 

きっと僕とは違って、上手くやってるんだろうな。

 

ものすごく虚しい。

 

胸の真ん中に穴が開いているみたいな気分だった。

 

そのおかげで、僕の思考は重力の二倍ほどの速さで暗闇に落ちた。

 

僕はこんな汚い部屋で何をしているんだろうか。

 

誰にもいまの姿を見られたくないからって、自宅に引き篭もって、何が楽しいんだ?

 

いや、だって聞いてくれよ。僕は頭の中の誰かに語りかけた。

 

僕が外を歩いてもさ、みんな僕のことを見ないで、左腕のあった辺りを見るんだ。

 

誰も僕なんか見ちゃいないんだって。みんなが見てるのは存在しない左腕なんだ。

 

だから、外に出るのはいやだ。僕の腕のあった場所を見ると、

 

何人かでいるやつらは決まってしかめっ面でぼそぼそと話し始める。

 

呪詛を吐いているように見えるよ。

 

で、しばらくするとそいつらは大声で笑い出すんだよな。

 

それを見聞きすると、ものすごく苛々するんだ。

 

何がそんなに面白いんだ? って訊いてやりたくなるよ。

 

それに、僕がここから出たって、気分が良くなるやつなんていないだろう。

 

だから僕はここにいる。僕は悪くない。そうだろ? そうだよな。

 

自分に適当な言い訳を聞かせて勝手に納得する、

 

という行為も、そろそろ飽きてきた。何日目になるのだろう。

 

朝日を見るたびに自問自答をし、月が辺りを照らす度に自己嫌悪に陥る。

 

もううんざりだ。

 

それでも、死んでやろうとまでは思わなかった。

 

自分から死ぬのだけはごめんだ。

 

しかし、「まあ、どうせ死ぬんだしな」、と

 

どうしても投げやりになってしまう。

 

おかげで無気力に陥る。僕は負のサイクルの内側に囚われていた。

 

僕はそのサイクルから逃げ出すために

 

昼間はソファーに縮こまり、右手で携帯電話を

 

握り締めながら彼女のことを考える。

 

女の子かよ、とか言われても仕方ない。

 

未だに僕は彼女の家に泊まった日の夢を見る。

 

しかし、その日の寝覚めは最悪に近い。

 

夢というのは、自分の願いが叶う場所とか、潜在意識の現われだとか思っていた。

 

しかし夢というのは、目に映る景色よりも鮮明に、現実を見せつけてくることもある。

 

僕はいまの自分が置かれた境遇を理解するために

 

彼女の夢を見ているのかも、なんて、くだらないことを思った。

 

僕はのろのろと布団から這い出て、カーテンを開けた。

 

目に強い光が襲い掛かる。白い光だ。

 

その光に対抗するように、薄目で窓の外を見た。

 

眼前にあったのは、僕が慣れ親しんだ町の風景とは少し異なっていた。

 

遥か頭上には、白い光を放つ球体がある。太陽だ。

 

ところどころに濃灰色の雲が浮かんでいて、空は灰色だ。

 

町はどこもかしこも灰色だった。車も、濃灰色だったり薄灰色だったりだ。

 

自分の身体も、似たような色をしている。

 

まるで白黒写真の中に飛び込んだような、不思議な気分になった。

 

しかし、僕はその不思議な気分を丸呑みにしてしまうほどの不安と恐怖に、肌が粟立った。

 

まさか。僕は寝室を飛び出し、リビングに向かった。

 

ありえない。リビングのテレビの電源を付けて、画面とにらめっこをする。

 

ちょっと待ってくれよ。薄いテレビに映っている映像もまた、灰色だった。

 

嘘だろ。なんとなく気付いてはいたが、認めなくなかった。

 

だって、こんなの、信じられない。

 

色がない。

 

僕の世界から、色が消えた。

 

目が、壊れ始めたのだ。

 

僕は頭の中で、ふたたび自問自答を開始した。

 

このまま見えなくなるのか?

 

知らないよ。

 

いつまでもつんだ?

 

知らないって。

 

なあ、どうすりゃいいんだ。

 

黙れ。知らないんだって。

 

助けてくれよ。

 

知らないって言ってるだろ!

 

ああ、糞! 答えろよ!

 

うるさい! 死ね! さっさと死んじまえ!

 

僕は衝動的に右手でテレビの液晶画面を叩き割った。

 

テレビは台から転げ落ち、派手な音を鳴らして、床に破片をぶちまけた。

 

右手が、じんじんと痛んだ。

 

涙で歪んだ視界は、灰色のままだった。

 

 

たぶん、夜だ。

 

窓の向こうの空が濃灰色に染まっている。町はほとんど黒い。

 

真っ白な光が空に浮いているが、あれはおそらく月なのだろう。

 

輪郭がぼやけていて形が分からない。

 

月の隣には、布に滲んだ牛乳みたいな、潰れた白い光が広がっていた。

 

あれは、星だろうか。

 

僕は朝から携帯電話を握り締めながらソファーに座り込んで、

 

眼前に広がる見慣れたはずの風景を、いまも漫然と眺めている。

 

悲しいとか怖いとか、そういうのはほとんどなかった。

 

もう、どうでもよかった。

 

諦めに近いものが、物事に対する関心を外側からごっそりと削いでいく。

 

真ん中に残ったのは、生へのみっともない執着と、彼女のことだけだ。

 

頭に叩き込んだ十一桁の数字のボタンを押すだけで

 

彼女の声が聞けるのに、僕はずっとそれをしなかった。

 

「きっと彼女も仕事で忙しかったり疲れていたりするだろうから、

 

電話なんかしたら悪いよな」、と自分に言い聞かせて

 

暗い部屋でずっと閉じ籠っていたが、そろそろ限界が近い。

 

内側の風船は破裂寸前のように見える。

 

でも風船って、意外と割れないものだと思う。

 

だから今のうちに、まだ僕がまともでいられるうちに、彼女に電話をかけることにした。

 

コール中に、どうやって視界が灰一色になったことを伝えようかと考えた。

 

『もしもし?』電話の向こうの彼女は、いつもと変わらない様子で言う。

 

『久しぶりだね。どうしたの?』

 

「いや、なんとなくね」僕は嘘を吐くのが苦手なので、正直に言った。

 

「君の声が聞きたくなったんだ」

 

『なにそれ。ロマンチックね』

 

「だろう。寝ないで考えたんだ」

 

僕は嘘を吐くのは苦手だけど、誤魔化すのは得意なほうだと思う。

 

『それにしては在り来たりな台詞だね』

 

「酷いな。必死なのに」

 

彼女と話していると落ち着く。話したい言葉が喉から滑り出してくる。

 

さっきまでの無気力が嘘のように思えてしまう。

 

『ごめんごめん』彼女はこれっぽっちも悪びれた様子じゃなかった。

 

『で、ほんとうにわたしの声が聞きたかっただけなの?』

 

「いや、それもあるんだけど、他にも理由がある」

 

『何』

 

「良いニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞きたい?」

 

『なにその洋画みたいな言い回し』

 

「アメリカンだろ?」

 

『はいはい。じゃあ良いニュースからお願い』

 

「良いニュースはだな……」僕は良いニュースを考えた。思いつかなかった。

 

「ごめん。考えてなかった」

 

『馬鹿じゃないの? じゃあ悪いニュースはあるの?』

 

「あるんだよ、これが。実はさ」

 

色が見えなくなったんだ、と言いかけて、止めた。

 

わざわざこの空気をぶち壊すような話題を、このタイミングで提供すべきではない気がする。

 

だから僕は代わりに、「最近肩がこるんだ」と適当なことを言った。

 

『で?』電話の向こうからは、なんとも素っ気ない返事が返ってきた。

 

「いや、それだけだよ? 続きを期待されても困る」

 

『え? 終わり?またどっかが壊れたとか言い出すのかと思ってドキドキしたじゃないの』

 

「ああ。あと、最近は右足がよく攣るんだ」

 

それに、異常に重たいんだ、と内心で呟いた。

 

『知らないわよ』

 

「だよね」話が終わってしまったので、話題を変えることにした。「最近、どう?」

 

『どう? って、また随分曖昧な質問ね』

 

「じゃあ、仕事はうまくいってる?」

 

『ぼちぼち』

 

「模範解答だね」

 

『みんな似たような感じってことじゃないの。

 

君はどうなのよ。大丈夫なの?』

 

「大丈夫ではないけど、まあ何とかやってるよ」

 

『そっか』

 

沈黙。

 

『ちょっと思い出したんだけど』沈黙を破るのはいつも彼女だ。

 

『わたしからも良いニュースと悪いニュースがあるの。どっちから聞きたい?』

 

「じゃあ、良いニュースから」

 

『きょうは七月七日。七夕です。星が綺麗だよ』

 

「知らなかったなあ」あの牛乳はやっぱり星だったのか。

 

『わたし、明日は休日なのです』

 

「おめでとう」

 

『以上。良いニュース終わり』

 

「で、悪いニュースは?」

 

『ごめん。考えてなかった』彼女は間髪要れずに答えた。

 

『それと、もうひとつだけ良いニュースがあるよ』

 

「何さ」

 

『ニュースというか、個人的な話なんだけどね。明日さ、蛍を見に行こうよ』

 

「蛍?」僕はとぼけて聞き返した。

 

『そう、蛍。ファイアフライ』

 

「僕は意味もなく横文字を使う人って嫌いじゃないよ」

 

『ありがとう。でさ、明日の夜、暇?』

 

「毎日二十四時間暇だよ。最近は一日が三十時間くらいに感じる」

 

『羨ましい』

 

「そんなに良いもんじゃないよ。ほんとうに死にそうだ」

 

『じゃあ死ぬまでにたくさん思い出作らないとね』

 

「そうだね」冗談に聞こえない冗談だ。

 

『……なんか君、丸くなっちゃったね』

 

「何が。腹? 背中?」

 

『いや、ちょっと前までなら、「僕は死なない」とか言い返してきたのにさ』

 

「ああ」確かにそうだった。いや、そうだったか? ああ、どうでもいいや。

 

「きょうはちょっと気分が良くないんだ」

 

『どうして?』

 

「なんとなくね。朝から調子が悪いんだ」

 

『ふーん。どうせ肩がこるとか言ってたのは嘘なんでしょ? ほんとうは何かあったんでしょ』

 

「何も無いよ」思わずソファーの上で小さく跳ね、苦笑いを浮かべた。

 

電話の向こうの彼女には悟られないようにしたつもりだった。

 

でも、彼女には見破られてしまったらしい。

 

『嘘。わたしには分かるのよ。またどっかが駄目になったんでしょ』

 

彼女には敵わない。「実は、そうなんだ」

 

『やっぱりね。どこがどうなったの?』

 

「目が、ちょっとね」

 

『見えなくなったの?』

 

「いや、見えるのは見えるんだけど、色が見えなくなったんだ。どこを見ても灰一色でさ。いやになっちゃうよ」

 

『……』電話の向こうでは、乾いた音だけが鳴っている。

 

やってしまった。言ってしまった。

 

わざわざ空気を重くするようなことを。馬鹿か。

 

しばらくの間、重い沈黙が続いた。

 

居心地の悪い、苦い空気だ。

 

これが永遠に続くんじゃないかと思い始めたとき、

 

彼女は、『そっか』と呟いた。

 

「でも、明日は君と蛍を見に行くよ」

 

僕は彼女の気が変わらないうちに、急いで言った。

 

変に気を遣われるのもいやだ。

 

『うん。行こう』

 

「ありがとう。きょうは急に電話なんかして、悪かった」

 

『別にいいよ。暇だったし。こっちから掛ける手間も省けた』

 

「そう言ってくれるとありがたい」

 

『じゃあ最後に。あんまり落ち込んじゃ駄目だよ』

 

「うん」

 

『きっと治るだとか、頑張ってだとか、あんまり無責任なことは言いたくないけど、これだけは言わせてほしい。自暴自棄にだけはならないでね。そうなったらほんとうに駄目になるよ』

 

「分かってる」

 

『それならいいんだけどね。あ、きょうは七夕だし、短冊に願い事でも書いてどっかに吊るしておけば?病気が治りますようにって。気の利いた神様が助けてくれるかもよ』

 

「女の子みたいな幻想を抱いているんだな、君は」

 

『失礼な。わたしも願ってあげようと思ったのに』

 

「是非お願いしておいてくれ」

 

『はいはい』

 

「じゃあ、また明日」

 

『うん。また明日ね』

 

電話は切れた。

 

ひとりに戻ったのだと思うと憂鬱な気分だった。

 

余韻も糞もない。暗く深い川に放り投げられたような、救いの無い寂しさとでも言うのだろうか。とにかく心細い。

 

僕は音のしなくなった電話を耳に押し当てながら、十分ほど固まっていた。

 

自分でも何をしたかったのかは分からない。

 

その間、ずっと彼女の言葉を反芻していた。

 

七夕。願い事。蛍。明日。……

 

電話の内容を思い出していると、消沈していた気分が、ゆっくりと浮上してきた。

 

我ながら、浮き沈みの激しいやつだと思う。

 

僕は彼女の言葉に突き動かされるように、シャボン玉のように脆く淡い期待をボールペンに込めて、長細い紙に願い事を綴った。

 

ついでに照る照る坊主も作って、窓の近くに短冊といっしょに吊るしておいた。

 

子どもに戻ったみたいな気分だ。馬鹿馬鹿しくて、笑みがこぼれる。

 

僕はそのまま、ふわふわとした気持ちをこぼさないように

 

必死で抱え込み、眠りについた。

 

明日が待ち遠しいなんて、いつ以来だろうか?

 

僕の内側は、まだ純粋だった少年だったころのように、綺麗になれたのだろうか?

 

なあ、教えてくれよ。

 

 

七月八日。町は黒い。夜だ。

 

輪郭を持たない月と、黒々と染まった町の間には、

 

幾重にも重なった灰色が広がっている。

 

月に近づくほど灰色は薄くなり、遠くなると濃くなる。

 

月から遠く離れた場所にあるこの町は当然暗いが、街灯があるので完全な暗黒になるということはない。

 

しかし、僕の足元はほとんど真っ黒だった。どこに地面があるのかも見えないし

 

どこからが脚で、どこからが脚じゃないのか、その境界線も見えない。

 

下半身は真っ黒な水に浸かっているような感じだった。

 

脚が重いので、なおさらそう感じられる。

 

いまの僕から見れば、街灯の光だけでは夜道は心細い。

 

視界の淵が黒いものに狭められてきているし、歩くのも少し踏ん張らなければならない。

 

まるで僕の意思とは別の何かに身体をコントロールされているような、不気味な感覚だった。

 

「大丈夫? 見えてる?」彼女は僕の隣を歩いている。

 

「見えてる見えてる」

 

僕の目に映ったのは、遺影のような、白黒の彼女の笑った顔だった。縁起でもない。

 

今朝。窓の脇に吊るしておいた短冊は消え、

 

照る照る坊主だけが太陽の光に曝されていた。

 

短冊はおそらく、分別だけが済んだごみ袋だらけの

 

僕の部屋のどこかで息を潜めているのだろう。

 

しかし、そんなことはどうでもよかった。

 

もっと重要なことを思い出したのだ。

 

昨晩、電話で「蛍を見に行く」という約束をしたが

 

いつどこで、僕はどうすればいいのかというのを訊き忘れていたのだ。馬鹿だ。

 

答えを保留する(させる)のは僕らの得意技だが

 

だからといって、「なるようになるさ」というスタイルをこのまま貫き通すのも

 

駄目な気がしたので、結局僕は今朝、ふたたび彼女に電話をかけた。

 

『もしもし?』電話の向こうからは、彼女の声と、何かの曲が聞こえてくる。

 

「もしもし? おはよう」

 

『おはよう。どしたの?』

 

「いや、訊きたいことがあってさ」

 

『何?』

 

「昨日、蛍を見に行くって言ってただろう?」

 

『うん』

 

「そのとき訊きそびれたんだけど、僕はどうしたらいいの?夜になったら、君の家に行けばいいのかい」

 

『いや』彼女は即座に否定した。『いまからわたしがそっちに行く』

 

「え? いまから?」僕は反射的に時計の方を見た。

 

時刻は午前九時四十五分だった。「早くない?」

 

『早くない。蛍を見に行くだけじゃなくてさ、

 

ちょーっとだけ買い物に付き合ってほしいんだよねえ』

 

「ちょーっと、ねえ」当てにならない言い方だ。「ほー」

 

まさか、夜まで買い物とか言い出すんじゃないだろうな。

 

『ほら、久しぶりにスパゲッティでも食べに行こうよ』

 

「驕り?」

 

『まさか』彼女は僕の声に被せて言った。

 

「さすがだね」

 

『もっと褒めてもいいんだよ』

 

「君のその小さい胸は最高にキュートだよね」

 

『変態』

 

「酷いな」

 

『お互い様よ』

 

「君も変態ってことかい」

 

『わたしも酷いってことよ。馬鹿』

 

「もっと罵ってくれ」

 

『うわ。気持ち悪い』

 

「その言い方はちょっと傷つくかな」

 

『ごめん』

 

「こちらこそ」本題は何だったか。忘れてしまった。

 

『もういいかな、このくだらない話。そろそろ君の家に着くんだけど』

 

「え? もう着くの? まだ何の準備もしてないんだけど。服すら着替えてないし」

 

『じゃあ、さっさと服と財布と心の準備をすること』

 

「君は僕のことを、荷物を引っ掛けられる財布か何かと勘違いしていないか?」

 

『そんなこと思ってないよ。君はわたしの』間。『大事な友達だよ』

 

「そうか」割と真面目っぽい返事をされたので、次に話すことが喉から上手く出てこない。

 

『何よ、その薄い反応。恥ずかしいじゃないの』

 

「いや、友達なのかと思って」僕は思ったことをそのまま口に出して言った。

 

『どういう意味?』

 

「それは」なんだか変な流れになってしまった。心臓が跳ねている。

 

僕は考えた。言うか、言わないか。……

 

『着いたよ。早く出てきて』彼女は僕の思考を遮る。

 

さっきのは無かったことにされたらしい。

 

「え? 速くないか?」

 

『いいから、早く。なんなら、わたしが家に上がり込んで着替えさせてあげようか?』

 

「急いで着替えるよ。あと、最後に訊きたいことがあるんだけど」

 

『何』

 

「君はまさか、電話しながら運転してたのかい」

 

『はあ。じゃあ、早く出てきてね』無視された。電話は切れた。

 

「うわ、めんどくせえ」とか思われたんだろう、たぶん。

 

午前中はひたすら彼女の欲しいものを、たっぷり二時間かけて買い漁った。

 

それは服だったり、本だったり、お菓子だったりで、とにかく僕らは歩き回った。

 

服の試着をするたびに、「似合う?」と訊いてくれるのは少し嬉しかったりするが、

 

僕は色が見えなくなったというのを忘れてしまったんだろうか。どれも同じように見えてしまう。

 

買い物袋が増える度に、僕の右手にかかる重さが増していくが、

 

彼女は僕の片腕がなくなったことを忘れてしまったんだろうか。

 

脚が重いって、いつか言ったはずだけど、それも忘れたんだろうか。

 

彼女はひたすら僕を連れまわした。

 

でも、腕と色がなくなっただけで、鬱々とした気分になられても困るのも事実だ。

 

だから僕としては嬉しかった。

 

今までと同じように接してくれるというのは、今の僕にとってはとてもありがたいことなのだ。

 

しかし、周りの人間はそうはいかない。

 

どこを歩いていても、何度も左腕のあったはずの場所に、幾つもの視線が刺さる。

 

興味のないように振舞っている人間も、必ずと言って良いほどにちらりとそこを見る。

 

本人は気付かれていないと思っているのだろうが、明らかに目の動きがおかしい。

 

一度そこを見た後は、一切そこを見ようとしないのだ。それはもう、不自然なほどに。

 

いやでも僕にはそれが分かる。

 

見る側から見られる側に行くと、苛々するほど見られる側の気持ちが理解できた。

 

無視しようとしても、どうしてもすれ違った人の小声が聞こえてしまう。

 

気分が逆立ってしまうのを止められなかった。

 

そんな僕に気を遣ってくれたのか、彼女はずっと僕の左側に立ってくれていた。

 

僕の左腕を隠すように歩いてくれた。

 

隣を見ても、彼女は決して暗い表情を見せない。

 

僕としては彼女を思いっきり抱きしめてやりたいところだったが

 

同時に、とても申しわけない気持ちになり、それどころではなかった。

 

彼女はほんとうに楽しんでいるのだろうか?

 

僕が隣にいることで、いやな気分になっていないだろうか?

 

「わたしは楽しいよ。なんでそんなこと訊くの?」彼女はスパゲッティを頬張りながら言った。

 

「なんか、気を遣わせてばっかりのような気がしてさ」

 

「そんなことないよ。君は? 君は楽しくないの?」

 

「いや」僕は即答した。「実は、楽しすぎて死にそうなんだ」

 

「ほー」彼女は微笑んだ。「お願いだから、そんなくだらないことで死なないでね」

 

「死ねないよ。こんなの」

 

「わたしもまだまだ君に言いたいことがあるからね。死なれても困る」

 

「言いたいことって、たとえば?」

 

「それは追々話していくとしよう」彼女は席から腰を上げた。

 

僕からお金を受け取らずに、伝票も持っていってしまった。

 

蒸し暑い空気が漂い始める、穏やかな午後。太陽が高いところで白く光っている。

 

僕らは午前よりペースを落とし、午前と同じようにいろんなところを回った。

 

といっても、途中からはほとんど喫茶店で駄弁っていただけだが。

 

さすがに一日中歩き回るのは、彼女にとっても苦行なんだろう。

 

疲れていたのか、彼女は小さなケーキを二つ頬張った。

 

「よく食べるね」僕はわざとらしく目を丸くして言った。

 

「君は食べなさすぎ。なんか、この三ヶ月ですっごい痩せたよね」彼女はコーヒーを啜る。

 

「そうかな」痩せたことよりも、あれから三ヶ月も経っていたということの方が驚きだ。

 

「ちゃんと食べてるの?」

 

「まあ、一日に一食は」

 

「駄目じゃん。普段は家で何してんの?」

 

「ずっとソファーに縮こまってるんだ。そのおかげで、お腹が減らない」

 

「はあー」彼女は呆れ顔だ。「ほんとうに大丈夫なの?」

 

「そろそろ拙いかもね。いろいろと」風船とか、身体とか、距離とか。

 

外に出ると、周囲は濃い灰色に包まれていた。

 

遠くには消えそうな白い光が、天辺にはぼんやりと薄い光が浮かんでいる。

 

「じゃあ、行こうか」彼女は呟いて、笑った。

 

 

この高い音で鳴く生き物の正体はコオロギなのか、

 

鈴虫なのか、それとも名前も知らないような虫なのか。

 

いや、もしかすると虫ですらないのかもしれない。

 

機械がこの音を流しているだけなのかもしれないし、

 

はたまた田圃に突き刺さっている案山子が鳴いているのかもしれない。

 

それに加え、外宇宙からやってきた生物が発声しているという可能性も存在する。

 

コオロギや鈴虫に似た地球外生命体だって存在するかもしれない。

 

姿が見えていないのに、「これはコオロギだ」だの

 

「これは鈴虫だ」だの、そんな決め付けをするのはおかしいと思う。

 

しかし、今の僕にとって、そんなことはこの世で最もどうでもいいことだ。

 

コオロギが鳴こうが、案山子が泣こうが、エイリアンが喚こうが、知ったことではない。

 

今、最も重要なのは、隣に彼女がいて、夜道を二人きりで歩いているということだ。

 

目の前には、長くてぐねぐねとした道が続いている。

 

この辺りは街灯が少なく、田圃や畑が多い。

 

足元の道も舗装が施されていない箇所があったりするので、少々歩きづらい。

 

ところどころに立っている電柱が、この風景の中に馴染めていないように見える。

 

言っちゃ悪いが、田舎っぽい場所だなと思った。

 

左手の柵の向こう側には池があり、滲んだ光が水面で揺れている。

 

ときどき波紋が広がり、光は震えながら潰れて、また元の形に戻る。

 

右手には、鬱蒼とした森林が広がっている。

 

奥の方に獣道のようなものが見えたが、あれは昼間に子どもたちが

 

この辺りをうろついているんじゃないだろうかと、適当な推測をした。

 

ダンボールでできた秘密基地とかがあったりするんだろうなあ。胸が少し痛んだ。

 

「着いた」彼女は立ち止まった。「ここだよ」

 

暗い。とにかく暗い。街灯は数百メートル先で、弱々しく光を放っている。

 

僕の目が正常だったとしても、これはあまりにも暗すぎると言ってもいいだろう。

 

蛍を見るのには最適な場所と言えるかもしれないが

 

僕にとっては何か少し恐ろしい場所に見えた。

 

視界はほとんどゼロに近い。暗闇の一歩手前だ。

 

どれだけ目を見開いても、届く光の量は変わらない。

 

「なあ」僕は耐え切れなくなって言った。「君はそこにいるのか?」

 

「ここにいるよ」声は左側から聞こえてくる。「見えないの?」

 

「真っ暗だ。ほとんど何も見えない」

 

「じゃあ、わたしが何をしても、君には分からないわけだ」

 

「頼むから、置いていったりしないでくれよ」

 

「わたしはそんな酷いやつじゃないよ」

 

「分かってるけどさ、怖いんだ」

 

「それなら」声は左側から背後、右側へ移動する。

 

「こういうのは、どうかな?」そして僕の右手が、柔らかいものに包まれた。

 

「こういうのって、どういうのさ」

 

「君がわたしの手を握っていれば、簡単にはどっかに行けないんじゃないの?」

 

「なるほど」これは彼女の手か。指が細くて、柔らかくて、あたたかい。

 

女の子の手って、こんなに柔らかいのか。

 

僕はそっと、彼女の手を握り返した。

 

「そんなんじゃ、わたし簡単に逃げられちゃうよ。これくらいしないとさ」

 

彼女は言い終わってから、自らの指を僕の指に絡ませて、強く握った。

 

僕は黙って、彼女の手を強く握り返した。

 

「そうそう。そんな感じ」

 

彼女の声は、あっけらかんとしていたが、彼女は今どんな表情をしているのだろう。

 

暗くて見えない。でも、暗くてよかったとも思う。

 

おそらく、僕の顔は林檎のような感じだろう。

 

彼女もそうであってほしいと、ささやかな願いを内心で呟いた。

 

しかし、どうも落ち着かない。気分が高揚している。

 

心臓の音が外にまで響いているんじゃないかと不安になった。

 

呼吸が荒くならないように、ゆっくりと空気を吐き出し、ゆっくりと空気を吸う。

 

どうしても肺に酸素が行き渡らなくなると、咳き込んだり鼻を啜ったりして呼吸を整える。

 

こういうとき、僕は大きく息を吸うと、震えてしまうのだ。

 

「君は昔からそうだよね」彼女はぽつりと言う。

 

「何が?」

 

「君の息の吸い方が変になるときって、だいたい緊張してるときなんだよ。知ってた?」

 

「え?」声が裏返った。ばれてたのか? 顔が焼けそうだ。

 

「ほー。そうかあ、緊張してるのかあ」彼女は絡めた指を少し緩めた。

 

僕は反射的に、彼女の手を強く握った。

 

「そうなんだよ」僕は嘘を吐くのが苦手なので正直に言った。

 

声が震える。「ものすごく緊張してるんだ」

 

「どうして?」暗闇の向こうで彼女は言う。きっと笑っているんだろう。

 

「どうしてって、それは」

 

暑い。熱い。肌が焦げそうだ。心臓は破裂しそうで、喉が渇く。

 

「それは?」彼女は僕の手を強く握る。それから前後に軽く揺れ始めた。

 

「はい、言ってごらん。せーの?」

 

なんだか誘導されているような感じだが、逃げては駄目なような気がした。

 

彼女は茶化すのが得意だ。

 

僕は誤魔化すのが得意だが、それはもう止めにした。

 

「あれだ。僕は、君のことが好きで堪らないからだ」

 

目の前で小さな光が点滅し始めた。

 

幾つも、幾つも光り始める。

 

急に視界が広がったような、心地良い感覚に襲われた。

 

「おー?」彼女は奇妙な声を上げる。

 

「なんだよ、それ」声が震える。

 

「やっと言ってくれたね」

 

「え。もしかして、知ってたのか?」

 

「そりゃあ、なんとなく分かるでしょう」

 

「なんか、調子狂うなあ」

 

身体から力が、肺からは空気が抜ける。右手はそのままだ。

 

「でも、わたしは好きとか愛してるとか、そういう言葉ってあんまり好きじゃないなあ」

 

「どうして?」

 

「ライクは別にいいんだけど、ラブって

 

なんか安っぽく聞こえない? 切ないとか、

 

そういう微妙な言葉も。中途半端というか、なんというか」

 

「そうかな」

 

「だって、アイ・ラブ・ユーだよ? 普通じゃん」

 

「よく分かんないけど」僕は急かした。

 

「そんなことよりも、君は僕のことをどう思ってるのかを知りたい」

 

「んー? 言わなくても分かってるんじゃないの?」彼女は微笑んでいる。

 

「そうであってほしいとは願ってる」

 

「好きだよ。超好き」

 

「それはラブ? ライク?」

 

「うーん。ライク・ライク・ライクくらいかな?」

 

「僕にも分かるように例えてくれ」

 

「君と結婚してもいいくらいには好き、かな?」

 

彼女は言ってから、空いた右手で顔を扇いだ。「あー、恥ずかしい。焼け死にそう」

 

「僕は今すぐ死んでもいいくらいに嬉しいよ」

 

「ちなみに、『君と結婚したい』ではないのがポイントだよ」

 

「変なところがリアルだよね」

 

「でも好きだよ」

 

もう言葉は必要ない。手が触れているだけでいい。そう感じた。

 

暗い森から、小さな白い光が次々と現れ、すぐに消えていく。

 

十数年ぶりに見た。

 

蛍の光というのは、想像以上に弱々しい。

 

彼女の目を通してみたら、蛍の光は何色で、どんな風に映っているのだろう。

 

きっと、色は白ではなくて、弱々しくもないのだろう。

 

彼女は、僕とは違う。

 

性別とか病気ではなく、もっと深いところ、根っこの部分が違うのだ。

 

彼女の目を通してみたら、僕は女の子みたいに弱くて、

 

脆い人間に映っているのだろうか。訊くまでもない。

 

でも、それでもいいと思った。

 

だから僕は、今ここにいられるのかもしれないのだから。

 

僕らは黙り込んだまま、二十分ほど明滅する光を漫然と眺めていた。

 

何かの虫が、どこかで鳴いている。耳障りな羽音が、鼓膜を揺らす。

 

遠くで、犬が吠えた。ぬるい風が葉を揺らし、乾いた音をたてる。青い匂いがする。

 

彼女が息をする音が、僕の耳元で聞こえる。彼女の匂いがする。

 

もう少し、こうしていたい。

 

と、思った矢先、彼女は「帰ろうか」と言った。

 

「もう帰っちゃうのか」思わず僕は零した。

 

「だって、蚊が多い」彼女は空いた右手で宙を扇いだ。

 

「ロマンチックも糞もないことを言うね」

 

「糞とか言っちゃうような人に言われたくありませーん」

 

「それもそうだ」僕は頷いた。「じゃあ、帰ろうか」

 

「うん、帰ろう」彼女も頷いた。

 

しかし、彼女が僕の手を引いて歩き出したとき、

 

僕は自分の置かれていた境遇を思い出してしまった。

 

そいつは脳の奥にしまっておいたそれを、無理やり引きずり出した。

 

背筋に冷たい汗が流れる。

 

眩暈がするほど息苦しい。歩くことができない。

 

僕は彼女の手を握りながら、その場に留まった。

 

同時に頭の中で、どうやって茶化そうかと必死になって考えた。

 

「どうしたの? 震えてるよ」

 

いつか来るとは分かっていたが、どうして今なんだ。

 

「ねえ、大丈夫?」

 

いや、今まで“もっていてくれた”ことに感謝するべきなのかもしれない。

 

「あのさ、良いニュースと悪いニュースがあるんだ」

 

僕は声を絞り出した。「とりあえず、こっちを見てくれ」

 

「どうしたのよ、いきなり」

 

彼女は訝しげな表情を見せながらも、身体を僕のほうへ向けた。

 

彼女の言葉を無視し、僕は続けた。

 

「まずは、良いニュースから。僕は今から、君に抱きつく」

 

時間がない。もう倒れる。

 

身体のバランスは崩壊した。

 

「え?」

 

「それと、悪いニュース」僕は絡まった指を解き

 

正面から彼女に抱きつくように、倒れこんだ。「右脚が動かなくなった」

 

「なによ、それ」彼女は僕を受け止め、小さく呟く。「なんで今なのよ」

 

「ごめんよ」声はほとんど出ていなかったが、顔が彼女の肩に

 

乗っかっている状態なので、これ以上声を張り上げる必要はなかった。

 

聞こえているはずだ。僕の声が。

 

「肩を貸してくれないかな」僕は続けて言う。

 

「そんなもん、いくらでも貸してあげるわよ」

 

「ありがとう」

 

「だから、もうちょっとだけ、この体勢で我慢して」彼女は僕の身体をきつく抱きしめた。

 

痛くはない。むしろ心地良かった。

 

だから僕は、「分かった」と答えた。声が震える。

 

「ごめんね」と言う彼女の声も、震えていた。

 

 

僕らは、いったいどこまで行けるんだろうか。

 

続く

 

 

僕の目が正常だったなら、頭上の空は真っ青のはずだ。

 

きっと雲ひとつ無い、澄んだ青空なんだろう。

 

僕の出来損ないの目を通してみると、灰一色だったが。

 

高いところで白い光が、僕を焼き殺そうとしているんじゃないかと

 

思うほどの強い熱を放っている。

 

アスファルトからの照り返しが、昨年よりも強く肌を焼く。

 

車椅子に乗っていると、地面から立ち昇る陽炎になったような気分になって、

 

二本の脚で立っていたときよりも暑さを強く感じる。

 

実際にはさほど変わらないのだろうが、今年の夏は暑すぎる。

 

身体が腐らないことを祈っておこう。

 

しかし車椅子ってのは、どうも好きになれない。

 

運ばれているというか、特別扱いされているというか、

 

他人が勝手に車椅子の上の人を可哀想なモノ、

 

もしくは気持ち悪いモノ扱いしてくるのが気に入らない。

 

それに加え、押してくれる人にも悪い気持ちになる。

 

自分で進むことができればいいのだろうが、僕には腕が足りない。

 

その気になれば進めないこともないが、それでは異常に時間がかかってしまう。

 

そして最も気に入らないのが、彼女と並んで歩けないという点。

 

しかし、車椅子に頼らないと僕は動くことさえままならない。

 

もどかしくて、苛々する。

 

悪いのは車椅子ではないが、ついそういう風に考えてしまう。

 

「夏の匂いがするね」車椅子を押しながら、彼女は言った。

 

「麦わら帽子でも被ってくれば、もっと雰囲気でたかな」

 

「夏の匂い」僕は復唱し、考える。

 

夏の匂いとは、なんだろうか。

 

プールの塩素の匂いとか、海の潮の匂いだろうか。

 

花火の火薬の匂いか?

 

しかし、この辺りにそんなものはない。

 

じゃあ何だ? 蝉の鳴き声が鼓膜を揺する。

 

緑の匂いか? 汗の匂いか?

 

しかし、墓石が並ぶこの辺りからは、それらのものをあまり感じられなかった。

 

「夏でお盆でお墓参りっていうと、この匂いだよね。

 

まあ、夏の匂いってのとは、ちょっと違う感じかな?」彼女は言う。

 

「ああ」線香から立ち昇る煙が空気に混じり、鼻腔をくすぐる。「そういうことか」

 

八月十五日。

 

今日は僕の提案により、霊園に来ていた。

 

提案というか、彼女が「お盆休みで暇だね」というので、

 

僕は「実家に帰るか、お墓参りにでも行けばいいじゃないか」と答えた結果がこれだ。

 

彼女は「もうどっちも行った」と言うので、必然的に僕の番になった。

 

墓参りには毎年行っていたが、実家には全く帰っていない。

 

向こうも帰ってきてほしくないと思っていることだろう。

 

彼女はある程度の事情を知っているので、黙って僕をひとりでここに連れてきてくれた。

 

僕がどれだけまともになろうと、閉じこもってた時期があったという事実は無くならない。

 

傷は癒えても消えない。

 

まともになっていた筈なのにこんな姿だったら、両親は呆れるだろうか。

 

呆れるだろうな。

 

「ここだ」僕は言った。

 

目前には、文字の刻まれた御影石が佇んでいる。隣にも等間隔で、綺麗に並んでいる。

 

ガラス瓶に酒は入っておらず、脇に供えられた花も枯れていた。

 

どうやら父も母も祖母も伯父さんも、今年はまだここに来ていないらしい。

 

この下にはたくさんの骨が埋まっているのだろうが、

 

用があるのはたったひとり分の骨だ。

 

曾祖父や曾祖母には会った憶えすらない。

 

僕にとって、いちばん身近な故人は祖父だ。

 

彼はよく分からない人だった。

 

後に祖母から「お爺ちゃんは本が好きやったんよ」

 

ということを聞かされたが、本を読んでいるのを見た記憶がない。

 

僕のことを可愛がっていてくれたらしく、まだ小さかった僕が祖父の家を訪れると

 

隠していた缶詰(猫用)と僕を引っさげて近所の川に向かったらしい。

 

そのころの僕が猫好きだったのかは不明だ。

 

「彼は隠れてやっているつもりだったらしいけど、わたしにはきっちりばれてた」、と祖母は言う。

 

ほとんど憶えていない。

 

僕が憶えているのは、僕と妹と従兄弟が遊んでいるのを

 

椅子に座りながら静かに眺めていた彼の姿だけだ。

 

そんな彼は、僕が小学三年生の頃に他界した。

 

そのときの僕には、何がなんなのか、全く理解できなかった。

 

心臓が停止するとほんとうに、あの高くて長い

 

無機質な音がなるんだなと、あとになって思い出す。

 

狭い病室にあの音が響くと、それに続くように次々と嗚咽が漏れ始める。

 

僕はそのとき、何かとても恐ろしいものを見ているような気持ちになった。

 

息苦しさに耐え切れなくて、病室から

 

後ずさるように退室したのを漫然と思い出した。

 

今の僕の姿を見たら、祖父はどんな顔をするだろうな。

 

「今、『僕が死んだらどうなるか』とか考えてたでしょ」

 

彼女は右手に持ったプラスチックの尺で、僕の頭を軽く叩いた。

 

左手のプラスチックのバケツには、半分ほど水が入っている。

 

「なんか、目が虚ろだったよ」彼女は続けた。

 

「いや、違うんだ。爺ちゃんが生きてて今の僕を見たら、どう思うかなってさ」

 

「ふーん。お爺さんって、どんな人だったの?」

 

「実は、ほとんど憶えてないんだけど」僕は頭を掻いた。

 

「でも、いっしょにいると安心できるっていうのかな、

 

落ち着くというか、そんな感じの人だった。

 

柔らかいというか、ふんわりとしてるというか」

 

「めちゃくちゃ憶えてるじゃないの」

 

「ほんとうだね」思わず吹き出した。

 

今更になって、次々と記憶が甦る。

 

「あと、僕は爺ちゃんの匂いが好きだったなあ」

 

「お爺さんの匂い?」

 

「うん。爺ちゃんの匂い。畳みたいな」

 

「よく分かんない」

 

「そうそう。僕の爺ちゃんは、よく分からない人だった」

 

彼女は薄く笑い、バケツを砂利の上に置いた。

 

少し傾いて、水が跳ねる。白く光る。

 

涼しい風が彼女の髪をかきあげた。砂埃が舞う。

 

木に茂った葉が触れ合う、乾いた音が辺りに響く。どこかで蝉が飛んだ。

 

それから、僕らは墓石を磨いた。

 

炎天下で力を込めて擦った。

 

汗が噴き出す。彼女の鼻の頭にも、玉のような汗が浮いている。

 

「暑い」彼女が零す。「アイスもしくはかき氷が食べたいね」

 

「あとで買いに行こう」僕は言い、墓石の両脇に花を添えた。

 

「驕り?」彼女はマッチを擦り、線香に火を付ける。

 

立ち昇る煙が空気中に拡散し、僕の鼻をつんと刺す。

 

「まさか」

 

「だよね」彼女は酒の入ったガラス瓶の蓋を開けながら続けた。

 

「君のお爺さんは、お酒好きだったの?」

 

「飲んでるのを見た記憶がないけど、好きだったんじゃないかと思う」

 

「ほんとうによく分からないね」

 

「君は好きなの? お酒」僕は訊いた。

 

「好きではないかな、あんまり飲まないし。でも、別に嫌いでもないよ」

 

「よく分からないな」

 

僕らは並んで瞼を閉じ、何かに祈った。

 

昔のことを思い出す。家族で祖父の家に遊びに行った日のこと。

 

家族でここに来たこと。従兄弟と蝉を捕りに行った日のこと。

 

大量の人に揉まれながら歩いた祭りの日のこと。花火を見たこと。

 

楽しかった。楽しかった? ああ、楽しかった。

 

確かに楽しかったが、もう一度そこに戻りたいとは、どうしても思えない。

 

何故だろう?

 

頭を揺すり、全部忘れることにした。

 

次に瞼を開いたとき、視界は真っ暗なんじゃないかと不安になったが、

 

いつも通り、目に映るのは味気ない灰色の風景だった。

 

治っていてほしかったなあと、淡い希望を胸の内側で吐き出した。

 

「じゃあ、帰ろうか」彼女は言い、踵を返す。

 

彼女の動きに合わせて、僕は車椅子を反転させた。必死である。

 

そして、来た道を引き返そうとしたとき、僕が密かに恐れていたことが起きた。

 

苦笑いが零れる程度には、恐れていたことだ。

 

遠くに四つの人影が見えた。

 

小さい人影はこちらに近づくに連れ、どんどん大きくなる。

 

やがてそのうちのひとつが、こちらを指差した。

 

それから、髪を揺らしながらこちらに向かって走り出した。

 

こうなるかもしれないとは、何となく思っていた。

 

しかし起こったらどうするかなんて、全く考えてなかった。

 

さすがにないだろうと思っていたのも事実だが、

 

起こってしまったものは仕方ない。

 

「ねえ、あれ」彼女は呟き、微笑む。「久しぶりに見た」

 

どうやら彼女も向こうに気付いたらしい。憶えていたのだ。

 

向こうは彼女が誰だか思い出せるだろうか。

 

「めんどくさいことになっちゃったなあ」

 

「ちょうど良かったじゃないの。どうせ言ってないんでしょ? 病気のこと」

 

「まあ、ね」僕は大きく息を吸い込み、吐き出す。咳き込んだ。

 

「緊張してる?」

 

「それなりに」

 

緊張以上に、怖い。

 

彼女と引き離される可能性だって、無いとは言い切れないのだ。

 

「人様にこんな木偶の坊を預けるなんて、それこそ恥だ」とか言うんだろう、きっと。

 

確かに彼女は全く関係のない赤の他人だった(とも言い切れないかもしれない)が、

 

今は少し事情が違う。

 

ようやくこうやって二人でいられるようになったのに

 

そんなのあんまりだ、と思ったが、同時に、実際のところ彼女は

 

僕のことを足枷だと思っているんじゃないだろうかと不安にもなった。

 

しかし彼女は「いっしょに頑張ろう」と言い、僕の背中を軽く叩いてくれた。

 

それで十分だった。

 

小さな人影はだんだんと人の大きさに近づき、

 

ゆっくりと減速して僕らの前で立ち止まった。

 

懐かしい顔だった。何年ぶりになるのだろう。

 

全くと言っていいほどに、変わっていない。

 

その人は興奮しているのか、恐ろしいのか、

 

ただ走って息が苦しいのか、大きく呼吸を繰り返している。

 

やがて、血の気の引いた顔をしながら、口を開いた。

 

「兄ちゃん、だよね?」

 

僕は頭を掻き、「久しぶり」と言った。

 

彼女も笑顔を浮かべ、「久しぶり」と言う。

 

妹の背後には、両親と祖母が近づいてくるのが見える。

 

「ねえ、どうしたの? その手と、脚……」

 

「その手と脚って、どの手と脚だよ」僕は笑ってみせた。

 

「その、左手と、右脚……」

 

「そんなもん無いよ」

 

妹の表情は凍りついた。

 

思わずため息が零れる。変な笑みが込み上げてきた。

 

まさか、うちの家族と墓参りの日が被るとは。

 

めんどくさいことになっちゃったなあ。

 

 

「どうして黙ってたんだ」父は静かに言った。「そんなに俺が信用できないのか」

 

「別に、そんなつもりじゃなかった。ただ、僕の顔なんて見たくないんじゃないかと思って」

 

「どうしてそんなこと言うの。そんなになってまで」

 

母は静かに零した。真っ直ぐ僕の目を覗いている。

 

「『帰ってくるな。お前なんか知らん』とか言ったのはそっちじゃないか」

 

「確かにそうだが」父は怒気を孕んだ低い声を響かせた。「それとこれとは別だ」

 

「人様に迷惑を掛けるなって言うんだろ、どうせ。死ぬならひとりで死ねって」

 

「何言ってるの。そんなこと……」母は弱く否定した。父は黙っている。

 

襖を挟んだ隣の部屋に、四つの目が見えた。

 

小さく開いた襖の隙間で、瞬きを繰り返している。

 

彼女と妹だ。どちらも微妙な表情だった。

 

どうしたらいい、と目で訴えかけているように見える。

 

むしろこっちが訊きたい。思わず苦笑いを零した。

 

霊園で両親と運命じみた遭遇をした後、僕と彼女は祖母の家に向かった。

 

僕はいやだと言い張ったが、彼女がそれを許さなかった。

 

押しに弱いというのは、なんとなく損な気がする。それに加え、

 

彼女は真っ直ぐな人間だということもあって、僕が有無を言う暇など無かった。

 

そして今、祖母の家の居間で僕と両親は、小さなテーブルを挟んで睨み合っている。

 

祖母は離れたところからそれを見守っている。

 

祖父も仏壇から見てくれていることだろう。

 

彼女と妹は居間から追い出されたが、どう見ても会話は筒抜けだ。

 

襖に防音処置を施してあるのなら話は変わってくるが。

 

「お前、なんて病気なんだ」

 

「知らないよ」

 

「まさか、病院に行ってないのか?」父は怒りを露にして言う。

 

「行ったに決まってるだろ。医者もこんな病気知らないって言うんだよ」

 

「それで追い返すなんて、酷い医者もおるんやねえ」祖母はぽつりと言った。

 

「そんな馬鹿な話があるか」

 

「こんな馬鹿な話があるから、四ヶ月もこうやって過ごしてるんじゃないか」

 

言い終わってから、あれからもう四ヶ月が経っていたことに気付いた。

 

早いような、そうでもないような。

 

「四ヶ月前から、ずっとそうだったの?」母は恐る恐るといった様子で言う。

 

「いや。腕が無くなったのは四月の終わりで、足が無くなったのは数週間前」

 

「目は?」

 

「え?」

 

「目も変なんじゃないの?」

 

母がそう言い終わると、父は「そうなのか?」と言い、僕を睨んだ。

 

「なんで分かったのさ」驚いた。

 

目について知っているのは彼女だけのはずだ。

 

「あんたの目がちょっと、濁ってるように見えたから」

 

「そっか」僕は諦めて白状した。自分に言い聞かせる意味も込めて、吐き出した。

 

「実は、色が見えなくて、視界が灰一色なんだ。たぶん、近いうちに見えなくなる」

 

「目も駄目になるのか?」

 

「目どころか、鼻も耳も駄目になって、

 

来年の四月には頭と心臓もお陀仏らしいよ。おめでとう」

 

重々しい沈黙が訪れる。

 

父は目を瞑り、腕を組みながら考え事を始めた。

 

母が長いため息を吐いて、机に突っ伏した。

 

どうしようもないのだ。

 

父が憤慨しようと、母が落ち込もうと、どうにもならないのだ。

 

僕が何か行動を起こしたところで、何かが変わるわけじゃない。

 

なのに、周りは勝手に落ち込んでいく。暗いほうへと自ら向かう。

 

必死に冗談や皮肉を言っても、できるだけ自然に振舞っていても、

 

僕を取り巻くものとの温度差が生じてしまう。

 

同情しているのか何なのか知らないが、これ以上僕を落ち込ませないでほしい。

 

別に慰めてほしいわけではないのに、勝手にしんみりとした空気を作り上げやがって。

 

僕が悪いのか? 僕がこんなだから、みんな苛々してるのか?

 

腕が無いから何なんだよ? 脚が無いから何なんだよ? 目が変だから何なんだよ?

 

身体の一部が欠けたら、今までの僕とは違うのか? ああ、苛々する。

 

「もういい。この話は置いておこう」父は言う。

 

その言葉を聞いたとき、僕の得意技の「答えを保留させる」というのは

 

父からの遺伝なのかもしれないと思った。表情には出さず、僕は小さく笑った。

 

「あの娘は何なんだ?」

 

父は襖の隙間からこちらを覗く彼女のほうを見ながら言った。

 

それに続き、「忘れちゃったの?」と、母。

 

さっきまでは机に突っ伏していたが、もう立ち直ったらしい。

 

浮き沈みの激しい性格は、母からの遺伝か。笑うしかない。

 

「昔、よくいっしょに遊んでた**ちゃんじゃないの?」

 

「そうだよ」

 

「ああ、あの娘か。大きくなったもんだ」

 

「当たり前だろ。僕と同い年なんだから」

 

「べっぴんさんやねえ」祖母はぽつりと言った。

 

「で、お前はまだあの娘に寄りかかってるのか」

 

父は呆れ顔で、ため息を吐き出した。

 

「……」何も言い返せない。実際、そうなのだから。

 

未だに彼女がいないと僕は駄目なんだ。

 

「何年か前にも助けてもらって、また助けてもらってるのか」

 

「……」気に障る言い方だな、と思った。苛々する。

 

暗いところに閉じこもった僕を引きずり出してくれたのは、彼女だ。

 

あのとき僕らは、まだ高校生だった。父の言う、「何年か前」の話だ。

 

彼女には感謝してもしきれない。

 

思えばあのときから僕は寄りかかりっぱなしなのかもしれない。

 

「ほんとうに情けない」

 

「……」そのとおりだ。

 

「昔と何も変わってないじゃないか」

 

「……」そのとおりだ。

 

「お前はいつになったらひとりで立てるんだ?」

 

「……」もう二度と立てないって。見りゃ分かるだろ、糞。嫌味か?

 

「あの娘に悪いとは思わないのか?」

 

「思ってるに決まってるだろ!」僕は力任せに手をテーブルに叩き付けた。

 

居間は、ふたたび静まり返る。猛烈な虚脱感に全身を包み込まれた。

 

時計の針が僕を急かすように、大きな音を鳴らしながら時間を刻んでいる。

 

考えないようにしてた。

 

僕がひとりでターミナルケアを受けていれば

 

少なくとも僕の知り合いに迷惑を掛けることはなかったはずだと。

 

理解していたのに、考えないようにしてた。

 

ひとりになればすべて解決するということも、

 

自分の我侭に無理やり彼女を付き合わせているだけということも。

 

もう隠すのは疲れた。僕の鎧を剥いでくれ。

 

どうしても聞いてもらいたいんだ。

 

彼らが僕と血の繋がった家族だからか何なのか、

 

よく分からなかったが、とにかく言ってしまいたかった。

 

僕が毎晩、どんな気持ちで布団に包まっているのかを。

 

僕が毎朝、どれだけ安堵するかを。

 

僕が毎日、どれほど怯えているかを。

 

僕と、彼女のことを、父と母に、妹と祖母に、聞いてもらいたい。

 

しかし、僕が顔を上げ、話し始めようとしたとき、それを遮るかのように父が口を開いた。

 

「もういい、分かった。お前は外に行って来い。今度はあの娘と話がある」

 

「なんで僕が外に出なきゃいけないのさ。聞かれちゃ拙いような話なのか?」

 

「そうだ」

 

「何だよ、それ」

 

「おい」父は僕の言葉を無視し、妹を呼ぶ。「こいつといっしょに散歩にでも行ってこい」

 

「分かった」襖の向こうから、くぐもった声が鳴った。

 

「散歩って、僕は犬かよ」

 

「よし、じゃあ行こうか!」妹は襖を勢いよく開け放ち、素早く僕の腕を掴んだ。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。彼女は無関係だろ」僕は父に向かって言った。

 

が、それに答えたのは彼女だった。「ここまで来ておいて無関係はさすがにないよね」

 

彼女はその場から立ち上がり、居間に向かって歩を進め始める。

 

長いスカートが、ゆらゆらと揺れた。

 

「わたしも少し話したいことがあるの。心配しなくても、わたしは大丈夫だよ」

 

「だといいんだけど」

 

「はい、早く行くよー」妹は僕をそのまま玄関まで引き摺っていった。

 

「いってらっしゃい」祖母は微笑んだ。他人事だと思って、暢気なもんだ。

 

 

カラスの鳴き声にかき消されそうになるほど小さな鳴き声だが、

 

確かに聞こえる。どこか遠くで、ひぐらしが鳴いている。

 

夏の日の入りの時間は遅いので、外は、まだ明るい。

 

妹と、車椅子に乗った僕は、石の敷かれた道から立ち昇る陽炎の中を歩いている。

 

道の脇にある大きな汚い川には輪郭がギザギザになった太陽が映っていて、

 

水面から反射する光が、やけに眩しく感じられた。

 

水中の魚の鱗が、はっきりと浮き出て見える。

 

もやもやする。不安と暑さによる苛々が脳を覆っていて、思考がまとまらない。

 

父は何を考えてるんだ? いったい父は彼女に何を吹き込むつもりなんだ?

 

僕から彼女を遠ざけるつもりなのか?

 

まさか、思い出話に花を咲かせるわけではあるまいだろう。

 

じゃあ何を話しているんだ?

 

頭の中の考えは陽炎のようにゆらゆらと曖昧模糊なもので、僕に答えを教えてくれない。

 

もう止めだ。考えても仕方ない。

 

もし彼女がいなくなったとしても、それは僕が悪いんだ。

 

迷惑をかけっぱなしで、うんざりしているかもしれない。

 

そのことに気付けなかった僕が悪いんだ。諦めるしかない。

 

彼女にはまだ先があるんだ。

 

明るい場所を歩くことができる。

 

こんな足枷にてこずっている場合ではないのだ。

 

でも僕は信じてる。

 

まさに藁にも縋るような想いだったが、

 

神様なんて当てにならないものに祈るよりは数百倍マシだと思った。

 

「兄ちゃん、軽くなっちゃったね」妹は車椅子を押しながら話し始めた。

 

「わたしより軽いんじゃない?」

 

「当たり前だ」僕はため息を吐いた。「お前よりは軽いよ」

 

「それはつまりどういう意味? わたしが太ってるって言いたいのかな? んー?」

 

「別にそんなこと言ってないじゃないか」

 

どちらかというと、妹は細い方に分類されると思う。

 

「そういう風にしか聞こえないんだけど」

 

「そりゃ悪かった」

 

妹は今年で高校二年生になっていた。留年もしていないようだ。

 

友達もいるらしく、どうやら明るい場所を歩いているようなので安堵した。

 

しかし服装がどうも中学生のころから代わり映えしないように見える。

 

今日も半袖シャツの上にパーカーを羽織り、

 

クロップドパンツという出で立ちだった。

 

もうちょっと服装に気を遣ってもいいんじゃないかと思う。

 

僕も言えた身ではないが。

 

毎日会っていたころは何とも思わなかったが、

 

久しぶりに話してみると中々楽しいものだ。

 

しかし僕は、「情けない僕の姿を見て、妹は何を思ったのだろうか」と、

 

今頃になって過去のことを思い出していた。

 

もう無かったことになっているのか、妹は普通に話しかけてくれる。

 

わざわざ訊くようなことではないが、どうしても確認しておきたかった。

 

「なあ」と僕が口を開いたとき

 

それを遮るように「ねえ、どっか行きたい場所ある?」と妹が話し始める。

 

妙な既視感を覚えた。ついさっき似たようなことがあったような。

 

僕の家族はみんなこうなのか? 苦笑いが込み上げる。

 

なんだか、どうでもよくなってしまった。

 

「ねえ、聞いてる?」

 

「聞いてる聞いてる。川の脇とか、橋とかがいいな」

 

「つまり、このままでいいの?」

 

「うん」僕は川に視線を滑らせながら言う。「ここ、相変わらず汚い川だよなあ」

 

「そうだねえ」

 

たとえ濁った緑色をしていようと、泥が混じっていようと

 

灰一色だろうと、水を見ていると落ち着く。

 

昔から海(というか砂浜)はあまり好きではなかったが、川や雨は好きだった。

 

川に映る風景だとか、そこで泳ぐ魚だとか、流される葉っぱとか、

 

雨が作り出す水溜りや波紋を、頭の中を空っぽにして眺めてるのが好きなのだ。

 

思えば、ものすごく時間を無駄にしていたのかもしれない。

 

おそらく余命が残り少ないことが分かっていても止めなかっただろうとは思うが。

 

耳に滑り込んでくる川のせせらぎが心地良い。

 

時折交じるカラスの鳴き声も、ひぐらしの鳴き声も、

 

子どもたちの笑い声も、とても綺麗なものに聞こえる。

 

目を閉じて、もっと耳を澄ませて聞いておこう、と思った。

 

音を、声を聞くんだ。

 

「ねえ。あたし達、いつまで散歩してればいいのかな」妹は、また話し始める。

 

「知らないよ。律儀に散歩しないで、別に家の前で待ってれば良かったのに」

 

「確かに」

 

「馬鹿か」呆れた。

 

「はあ、暑い」唐突に話が変わった。「アイス食べたい」

 

「お金は持ってないぞ」

 

「えー。さすがにアイス二本買うくらいはあるでしょ」

 

「いやいや。お前は今以上に僕の生活を苦しめるつもりか」

 

「そんなに大変なの?」

 

「一日にひとつのカップ麺しか啜れない程度には大変だ」

 

「ふうん、それは大変だね。だからこんなに軽いんだ」

 

「他人事だと思って」

 

「ごめんごめん。じゃあ、アイス買いにいこう。あたしの奢りだよ。感謝してね」

 

「はいはい」

 

車椅子のスピードが上がった。風が気持ちいい。

 

妹は必死こいて車椅子を押してくれているのだろう。

 

そのまま川沿いの道を真っ直ぐ進み、しばらくしてから左に折れた。

 

この辺りは建物の影になっていて、まだ暑さはマシだったが、

 

走っている妹にとってはそんなこと関係ない。

 

「なんで走るんだ? もうちょっとゆっくり行けばいいのに」僕は思わず零した。

 

「いいの。走りたいの」

 

「何だよ、それ」

 

「兄ちゃんには分からないだろうね、この感じ。よく分かんないの」

 

「よく分からないな」

 

「いいんだよ、分からなくて。きっと一生分からないだろうし、分からない方がいい」

 

妹は言い切った。少し声が詰まっているように聞こえる。

 

僕は素っ気なく「そっか」と前を向いたまま言った。

 

振り返ってはいけない気がする。

 

胸が苦しい。

 

何に対してかはよく分からないが、

 

とても申しわけない気持ちに陥った。

 

 

妹は駄菓子屋でアイスを六本買って、車椅子を押しながら

 

家までの道をふたたび疾走した。

 

おそらく全身汗だくで、顔は真っ赤になっているだろう。

 

僕は一度も振り返ることができなかったので、実際のところは違うのかもしれない。

 

家の前に戻ってきても、空はまだ明るかった。

 

ひぐらしもカラスも鳴いている。

 

ほんとうに時間が経ったのかと思うほど代わり映えしない風景だ。

 

妹は息を切らしながら、思いっきり玄関扉を開け放ち、

 

ずかずかと三和土を踏みつける。

 

そして「ただいまー!」と、思いっきり叫んだ。

 

ほとんど間もなく、「おかえりー」という祖母の声が返ってきた。

 

「お前、今日は何か変だな」僕は言った。

 

「誰のせいだと思ってんの」

 

妹はそう返し、僕の腕を掴んで居間の前まで引き摺っていった。

 

もう少し丁寧に扱ってもらいたいものだ。

 

そして居間への襖をゆっくりと開け、祖母に「終わった?」と訊く。

 

「もう終わるんじゃないかねえ」そう言ってから祖母は笑顔で僕のほうを向き、

 

「あんた、いい娘に出会えたんだねえ。お婆ちゃんは嬉しいよ」と、言った。

 

「うん。あの娘は、ほんとうにいい娘なんだ」僕を何度も救ってくれているんだ。

 

惚気とか自慢とか、そういうのではなく、本心だった。

 

「おうおう、惚気ちゃって」妹が茶化す。

 

「うるさいな」

 

「あんたたち、ほんとうに仲が良いねえ」

 

「うん。あたしたちは、ほんとうに仲がいいんだ」

 

妹は言ってから僕の顔を見て、吹き出した。

 

こいつ、真似やがった。なかなか恥ずかしい。

 

「真似すんなよ」

 

「お、分かった? 似てたでしょ」

 

「いや、全然」

 

「冷たいなあ。怒らないでよ」

 

「ほほほ」、と祖母が笑った。笑い事ではない。

 

そのとき襖がゆっくりと開き、彼女が顔を覗かせた。

 

襖の向こう側には、父と母の姿が見える。

 

どうやら、僕に聞かれたくない話は終わったらしい。

 

「目が真っ赤だけど、大丈夫?」僕は訊いた。

 

「誰のせいだと思ってんの」彼女は小声で答える。

 

「ごめん」表情が緩んだ。

 

「なに笑ってんのよ」

 

「さっき妹にも全く同じことを言われたんだ」

 

「なら、きっと妹ちゃんの目も真っ赤ね」

 

「まさか。あいつに限ってそんなこと」

 

僕は振り返って妹の目を見ようとしたが、即座に目を逸らされた。

 

「仲良いんだね、相変わらず」

 

僕は「そうだね」と適当な返事をし、息を吐き出してから、

 

「僕らは、ほんとうに仲が良いんだ」と言った。

 

妹は小さく吹き出した。

 

それから僕ら(父と母を含む)は、微妙に溶けたアイスを零さないように頬張った。

 

居間で机を囲みながらアイスを食べるという光景は、

 

はたから見ればなかなか奇妙な感じだと思う。

 

でも、悪くなかった。

 

さっきよりも雰囲気が柔らかく感じる。彼女のおかげなんだろう。

 

いったい、僕がいない間にどんな話をしたんだ?

 

結局、僕はどうなるんだ? このままでいられるのか?

 

実家送りか、それとも病院送りか? それだけはいやだ。

 

でも、その可能性のほうが高い。どうにもならない。

 

そろそろ諦めて、歯を食いしばらなければならないのかも。

 

もしくは、自宅でひとりきりになるか。あり得る。

 

でも、今更ひとりになったところで、別にどうってことないよな。

 

じゃあ、暗い部屋で野垂れ死ぬのか。それも悪くないかな。

 

ため息が零れそうになるが、堪えた。

 

「兄ちゃん。アイス溶けてるよ」

 

「え、ああ」視線を下ろすと、ズボンに溶けたアイスが張り付いていた。「やっちまった」

 

「あーあー」「あーあー」

 

彼女と妹がほとんど同時に声を上げた。

 

それを聞いた両親は顔を見合わせたあと、少し笑ったように見えた。

 

 

「そろそろ、帰ろうか」彼女は立ち上がり、言った。

 

「いっしょに帰ってもいいの?」僕は両親に訊いた。父は黙って頷いてくれた。

 

「あんた、お金は大丈夫なの?」母は訊く。

 

僕が仕事を辞めたことは知られたらしい。だいたい察しはついてただろうが。

 

手足が無いからって甘えんな、とか父に言われるのかと思ってた。

 

「大丈夫ではないかな」と僕が苦笑いを浮かべると、

 

「これ持ってけ」と、父が僕の胸の辺りに何かを押し付けた。

 

「何これ」どう見ても財布だった。父の、ぼろぼろの財布だ。

 

「黙って持っていけ」

 

「そんなことしてもらわなくても、何とかするって」

 

「大丈夫だ。免許証は抜いてるから、受け取れ」

 

「そういう問題じゃなくて」

 

「俺だって一応お前の父親なんだ。たまには親のいうことを聞け。アホ」

 

言いながら、財布を胸に強く押し付ける。

 

「どうせ、大して入ってないんだろ?」僕は照れ隠しで言った。

 

「当たり前だ」

 

「ありがとう」

 

変な気分だ。胸に何かが詰まったような、何とも言えない気分だった。

 

そしてどうやら、恐れていた事態は回避できたらしい。

 

むしろ、関係は良好なほうへ向かっているように見える。

 

彼女はいったい何を話したんだ?

 

僕は考えながら、玄関まで這うように進んだ。

 

それから彼女の力を借り、車椅子に跨った。

 

彼女は三和土を踏みしめ、車椅子を外に押す。

 

カラスとひぐらしの鳴き声に鼓膜を揺すられ、蒸し暑い空気に包まれた。

 

日は沈みかけていて、空は濃い灰色をしている。

 

僕の目が正常だったなら、きっと綺麗な夕焼けだったんだろう。

 

「またね、兄ちゃん」妹は小さく手を振った。

 

「いつでもおいで」祖母は笑う。

 

「たまには帰ってこいよ」父がそう言うと、

 

母は父の顔を覗き込んでから、僕に微笑みかけた。「またね」

 

「うん、うん」、としか返せなかった。

 

どんな言葉も喉につっかえて、うまく吐き出せない。

 

そんな中途半端な返事をして、僕らは帰り道を歩き始めた。

 

僕も彼女も振り返らなかった。振り返ってはいけない気がした。

 

しばらく歩いてから、僕は疑問を口にした。

 

「なあ。いったい、僕がいない間に何を話したのさ」

 

「んー。何って、ちょっとした昔話を、ね」

 

「昔話?」

 

「わたしが昔からどれだけ君を見てたか、って話。

 

わたしがどれだけ必死だったか、君にも見せてあげたいよ」

 

「ごめんよ、迷惑かけちゃって」

 

「今更こんなこと、大したことないって。わたしも好きでやってるんだし」

 

「ありがとう。でさ、もうひとつ気になってることがあるんだけど」

 

「何?」

 

「どうして僕は追い出されたんだ?」

 

「そりゃ、子どもに見られたくなかったからでしょ」

 

「何を」

 

「父親が泣いて頭下げてるところ」

 

「冗談だろ?」

 

「君は冷たいなあ。あんなにいい人なのに」彼女の声は震えていた。

 

「なに泣いてるのさ」

 

「泣いてない」鼻水を啜る音が聞こえた。

 

「分かってもらえて良かったと思ったら、ちょっと安心しただけよ」

 

「そっか」

 

僕は握り締めたぼろぼろの財布の中身を覗いた。

 

そこで思わず吹き出してしまった。父は嘘を吐いていたのだ。

 

「何が“大して入ってない”だよ。こんなに入ってるじゃないか……」

 

「泣いてるの?」

 

「泣いてない」僕は鼻水を啜った。でも堪えきれなくなって、崩れた。

 

「ああ、糞。卑怯だよな。こういうときだけ優しくしちゃってさ」

 

「そうだね」

 

もう一度、顔を見せに行かなきゃならないなと思った。

 

今の僕らは、はたから見れば、見世物にでも見えるのだろうか。

 

今更恥ずかしくも何とも感じなかったが、彼女には悪いなと思う。

 

そのとき、ふと目に映った滲んだ太陽が、子どものころに見たような、鮮やかな光を放っているように見えた。

 

 

どうしたものか、夏は中々終わらない。

 

八月二十二日。

 

味気のない濃灰色の空に、味気のない薄灰色の火花が炸裂した。

 

遅れて、低い爆発音が空気を微かに振動させる。

 

遠すぎて、あまり見えない。視界が狭いおかげで、余計に見えづらい。

 

僕は薄暗く汚い部屋で座り込み、窓の外を眺めていた。

 

ゴミだらけの部屋だが、匂いはさほど気にならない。

 

慣れてしまったのか、それとも嗅覚が死んだのかの

 

区別はつかないが、別にどうでもよかった。

 

目と、耳と、声と、手がひとつだけ残っていれば、それでいいと思えてしまう。

 

僕の隣には、ゴミ袋(燃えるゴミ入り)がある。凭れるにはちょうどいい

 

柔らかさなので、そのまま微睡んでしまいそうだ。

 

ふたたび爆発音が空気を揺する。

 

彼女も、この花火を見ているだろうか。

 

ぼんやりとする頭でまず考えたのは、そんなことだった。

 

いったいどこまで彼女に凭れかかれば満足するんだと、自分を哂った。

 

空しい。

 

墓参りに行った日から、胸によく分からない空洞が出来上がっていた。

 

頭を垂れ、ため息を吐く度にそれが広がっているような気がする。

 

忘れかけていた風船も、それに合わせて膨らみ始める。

 

全体は良い方向に向かっているはずなのに、どうにも喜べなかった。

 

当たり前だ。死ぬんだから。

 

全体にはあっても、僕には良い方向なんて存在しない。

 

どこかに落下しているような気分だった。

 

暗い穴に落ちている最中で、底に着いたときが最期だ。

 

誰かが僕の手を掴んでも、それは一時凌ぎにしかならない。

 

重力や運命とやらには逆らえない。

 

勝敗の分かっているゲームほどつまらないものはないとは言うが

 

僕は別にそんなことはないと思う。確かにつまらないというのも理解できるが

 

結果より過程ともいう。落ちている最中にだって、やれることはある。

 

たとえそれが自己満足だとしても、何もしないよりはマシだ。

 

カッコ悪かろうが惨めだろうが、どうせ誰も見ちゃいない。

 

とは言うものの、他人に迷惑をかけるのは間違っているんじゃないかとも思う。

 

彼女は今、僕といっしょに穴の底に向かっているんじゃないかと不安になった。

 

自分の手で壁に掴まって這い上がることができればいいのだが、

 

落ちている最中にその穴の壁に触れただけで、

 

腐った身体は吹っ飛んでしまいそうになる。

 

誰かに救い上げてもらうか、抜け道を見つけるか、重力をひっくり返すくらいしないと、僕に先は無い。

 

医者は病気のことを知らないという。

 

重力がひっくり返るなんて、まずあり得ない。

 

結局、抜け道を見つけるしかない。

 

物事には裏表がある。コインやカードと同じだ。

 

でも、裏表では駄目なのだ。

 

僕は側面に、もしくは裏と表の間に行かなきゃならない。

 

しかしまあ、具体的には何をすればいいのかがさっぱりなので、

 

もう思考を停止させ、味気ない最後の花火を目に焼き付けておくことにした。

 

一分後、結局花火には集中できず

 

僕は久しぶりに頭の中の僕自身と会話を試みた。

 

こんな気分で花火を見るなんて、悲しいやつだな。

 

だよなあ。

 

それに、僕の今の恋人は隣のゴミ袋なんだよな。最悪だ。

 

お似合いだな、ゴミ同士仲良くやれよ。

 

無口で、なかなか可愛いもんだ。

 

すぐ燃えそうだな。顔から火が出たら即死だ。

 

火なんか出ねえよ。アホ。

 

なに怒ってんだよ。

 

うるさいな。

 

笑えよ。

 

笑えねえよ。

 

空しい。

 

かつてこれほどにまで空しいと感じたことはなかったように思う。

 

もう今日は暗い場所に行きたい気分だった。

 

まだ午後八時くらいなんだろうが、布団に包まることにした。

 

カーテンを閉める前に、もっと花火を目に焼き付けておこうと、

 

結局それから三分ほど花火を眺めていた。

 

ずっと目を見開いていると目が乾いてきたので、

 

思いっきり目を瞑った。涙が零れそうになる。

 

瞼の裏に、彼女の笑った顔が見えた。

 

彼女は、この花火を見ているだろうか。

 

目を開く。

 

当たり前だが、彼女は目の前にいない。

 

そのことが、どうしようもなく悲しく思えた。

 

それに加え、どれだけ目を見開いても、視界は黒一色だった。

 

小さな爆発音は聞こえるが、どうしても光を見つけることができない。

 

まさに暗黒という言葉がぴったりだと、他人事のように思った。

 

なあ。どう思う?

 

真っ暗だな。ついに目が死んじまった。

 

だよな。そういうことだよな。

 

いずれ来るとは分かってたけど、いざとなると恐ろしいもんだ。

 

だよな。最悪の気分。吐きそうだ。

 

吐いちまえよ。もういいだろ? お前はよく耐えた。

 

駄目だ。まだ、大丈夫だ。

 

そうか。頑張れよ。

 

僕は吐き気を堪えながら、静かに頬を濡らした。

 

世界から光が消えた。瞳は暗黒に塗り潰された。

 

ようやく落ちている穴の底が見えてきたような、そんな気がした。

 

そのとき、どこかから携帯電話の鳴る音が聞こえた。

 

聞き馴染みのある音だった。彼女だ。間違いない。

 

僕は床を這い、必死に音の方向へ向かう。

 

たしか、テーブルの上に置いてあったはずだ。

 

ゴミ袋を掻き分け、テーブルがあるはずの場所を目指す。

 

目が見えなくなったのが自宅で“まだ”良かったとは思うが、

 

気分はどんどん沈んでいく。

 

テーブルの脚と思われる、硬い木に額をぶつけた。

 

激しい痛みを涙といっしょに流して、構わずテーブルの上を漁る。

 

何かが音をたて、床に散らばっていく。

 

ティッシュだろうが、テレビのリモコンだろうが、どうでもいい。

 

今この電話に出ないと、もう二度と誰からも

 

電話がかかってこないんじゃないかと、そんな根拠も糞もない考えが脳裏を掠めた。

 

今取らないと見捨てられてしまうんじゃないかと、必死だった。

 

死に物狂いでテーブル上を漁っていると、やがて携帯電話は見つかった。

 

小刻みに震える電話を、大きく震える手で硬く握り締め、通話ボタンの位置を探る。

 

早く。早く! 早く!

 

「もしもし?」僕は急いで電話に出た。

 

しかし、返ってきたのは連続した機械的な音――通話終了音だった。

 

遅かった。間に合わなかった。

 

ため息を吐いてから、片手で片足を抱えて座り込んだ。

 

頬に冷たい何かがへばりついている。ひんやりとして、気持ち悪い。

 

気付いたら、子どもみたいにすすり泣いていた。

 

泣いたら頭がすっきりして、またゼロからやり直せるような気がした。

 

涙が乾いてくると、むせて、胃液を床にぶちまけそうになる。

 

しかし、どれだけ激しくむせても、出てくるのは乾いた咳だけだった。

 

まだ終わったわけではないはずなのに、立ち直ることができない。

 

まだ目が見えなくなっただけなのに、潰れそうだ。

 

そうだ、まだ終わってない。まだ、続くんだ。まだ、続けることができる。

 

怖い。怖いはずなのに、腹の底から変な笑みが込み上げてくる。

 

僕は声を上げて笑ってから、また涙をぼろぼろ零した。

 

どこからどう見ても頭のいかれた奴だ。

 

本人は至って真面目に悲しんでいるというのに。

 

ああ、頭がおかしくなりそうだ。

 

まだ頭がおかしくないと言い張れるほどにはまともだと思いたい。

 

知らなかったんだ。光が無いってのは、こういうことだったのか。

 

光だけではなく、未来への期待や希望まで消え去ったような気分だ。

 

もとからそんなもの大して持っていなかったが、今度こそ粉々にぶっ壊れた。

 

もう、自分から死ぬのも悪くないかもな。首を吊っちゃったりしてさ。

 

そんな考えがどこかから浮上してきた。同時に、過去のことを思い出す。

 

ものすごく苦しいんだよな、あれ。昔は五秒も耐えられなかったっけ。

 

結局諦めてぼーっとしてたら、ものすごく自分が惨めに見えてさ、意味もなく泣いてさ。

 

しばらくしたら、もうちょっと生きていようとか、明日から頑張ろうとか、

 

まるで綺麗な人間になったみたいに思ったりしちゃってさ。

 

結局、根っこの部分は何も変わってないのにさ。

 

そしたら、彼女が僕の手を掴んで、暗い部屋から引きずり出してくれて――。

 

懐かしい。

 

懐かしいが、そんな思い出も、今の僕を余計に惨めに感じさせてくれるだけだった。

 

父の言ったとおりだ。昔から何も変わっちゃいない。きっと今なら五秒でギブアップだ。

 

どうしてこうなったんだろう。何かの罰か、

 

それとも生まれたときからそういう風になっていたのか。

 

神様だとか運命だとか、そんな胡散臭い言葉を怨まずにはいられなかった。

 

乾いたと思ったら、また零れてきた。むせた。

 

酸っぱいものが喉を満たし、外側に出ようとしている。

 

必死に堪え、胃に押し返した。むせた。涎が飛ぶ。

 

水が欲しい。落ち着こう。考えるんだ。

 

僕は床を這うようにして台所に向かおうとした。

 

そのとき、右手に握り締めた携帯電話が、高い音を鳴らしながら、小さく震え始めた。

 

大きく深呼吸をして、呼吸を整えた。

 

それからゆっくりと通話ボタンを探り、そっと押した。

 

「もしもし」僕はできるだけ自然に振舞おうとした。

 

『もしもし?』彼女の声が聞こえた。その瞬間、また崩れてしまった。『寝てた?』

 

「いや、起きてて花火を見てたんだけどさ」

 

『声が震えてるけど、もしかして、泣いてたりする?』

 

「花火が綺麗だったから」

 

『嘘』

 

「そうだよ、嘘だよ」僕はぶっきらぼうに言った。

 

「灰色の火花が綺麗に見えるやつがいるんなら、そいつは間違いなく病気だね」

 

『そうね』

 

僕は深呼吸した。深呼吸というよりは、ため息だ。吐く息が震える。

 

「良いニュースと悪いニュースがあるんだ」

 

『良いニュースからお願い』

 

「君は今日から、僕に会うときは化粧をしなくてもいい。おめでとう」

 

『……悪いニュースは?』

 

「目が、見えなくなった」

 

『今から、そっちに行く』

 

「明日は仕事じゃないのかい」

 

『どうだったかな。忘れた』

 

「ごめんよ」

 

『謝らないで』

 

「うん。ありがとう」

 

『どうする? 通話状態のままそっちまで行こうか?』

 

「危ないから止めてくれ」

 

『分かった。すぐ行くね』

 

電話から彼女の声は聞こえなくなり、

 

また連続した機械的な音が鼓膜を揺する。

 

僕は電話を投げ捨て、ダンゴムシのように床で丸まった。

 

ふと、永遠に彼女はここに来ないんじゃないかと、そんな考えが脳裏を過ぎった。

 

彼女は必ずここに来てくれると信じている自分と、

 

信じることを放棄しかけている自分がいる。そのことに、ものすごく腹が立った。

 

同時に、情けなくも感じた。

 

思いっきり頭を揺さぶって中身を空っぽにしようと試みたが

 

激しい痛みに襲われ、それどころではない。額をなでると、腫れていた。

 

そういや、ぶつけたんだっけ。机の脚に。

 

なんだよ、机の脚って。馬鹿じゃないのか。

 

そんなことを思い出しただけで、また涙が零れた。

 

どんな小さな記憶や現象でも、今の僕を惨めにするには十分すぎる力を持っている。

 

思い出や目の前の暗闇、それに彼女の声が、

 

僕の内側で攪拌されて、黒くどろどろとした思考を作り上げていく。

 

風船が揺れた。

 

彼女は、いつやってくるんだろう。吐きそうだ。

 

 

「大丈夫?」彼女の優しい声が聞こえた。

 

七十二時間ぶりくらいに聞いたんじゃないかと思ったが、

 

実際には電話を切ってから一時間も経っていないらしい。

 

僕は不貞腐れて「遅いよ」と言った。

 

そしたらまた崩れそうになった。ぼろぼろだ。

 

もう、とことん甘えたかった。

 

「鍵、開いてて良かったね」彼女は言い、僕の手を握った。

 

「いつも開けてあるんだ」僕は言い、彼女の手を強く握り返した。

 

「無用心ね」

 

「別に盗られて困るようなものは何も無いからね。君も勝手に入ってきてくれていいよ」

 

「わたしがこんな汚い部屋に進んで来たいと思う物好きに見える?」

 

「見える」

 

「よく分かってるじゃないの」きっと彼女は笑っているんだろう。

 

ただ、それをもう二度と見ることができないのが、どうしようもなく悲しかった。

 

「しっかし汚い部屋ね。呆れた」

 

「今の僕にはぴったりだろ」

 

「分別だけは済んでる辺りが君らしいというか、何というか」

 

「僕は、くだらないことにだけは拘るやつなんだ」

 

「知ってる」

 

「知ってたんだ」

 

「君のことなら何でも知ってるよ」

 

「じゃあ今、僕が何をしたいと思っているか当ててみてくれ」

 

「わたしに泣きつきたい、かな?」

 

「正解。抱きついていいかな」

 

「一時間ごとに十円払ってくれるならいいよ」

 

「まけてくれ。お金が無いんだ」

 

「仕方ないなあ。無料でいいよ」

 

「ありがとう」声が震える。堪えられなかった。

 

僕は彼女に抱きついて、子どもみたいに泣き叫んだ。

 

彼女の服の肩の部分は、涙と涎と鼻水で粘ついていることだろう。

 

彼女は黙って背中をさすってくれていた。

 

胸中では鬱陶しいと思っていたのかもしれないが、

 

決してそれを口には出さなかった。

 

彼女は今どんな気分で、何を思って、どんな顔をしているんだろう。

 

どれだけ考えても無駄だった。

 

今それを知ることはできないし、これから知ることも、永遠にない。

 

そう思うと、堪らない。

 

「大丈夫だよ」

 

もう父や母、妹や祖母の顔も見ることができない。

 

あの忌々しかった灰色の朝日だって、夕陽だって、

 

月だって、唯一の楽しみだった雨だって、もう目に映ることはない。

 

これから見られるはずだった紅葉も、

 

雪も、桜も、遥か遠くの存在になってしまった。

 

信じられない。

 

彼女の顔も、目も、手も、胸も、脚も、もう二度と拝めないだなんて。

 

仕舞いには彼女の匂いも分からなくなって

 

彼女の手を握ることもできなくなって

 

彼女の体温も感じられなくなって

 

彼女のことも忘れてしまって、最後には――。

 

どうすればいいんだろう。

 

何も考えたくない。

 

今は頭を空っぽにして絶叫していたい。

 

「わたしはここにいるよ」

 

今の僕は人間なんだろうか。

 

ただ叫んで、ひたすら頬を濡らしている、人間?

 

ただの化け物か、もしくは爬虫類みたいなもんなんじゃないかと

 

頭の中で爆発するようにそんな考えが拡散したが、すぐに萎んだ。

 

何を考えても、すぐに消えた。

 

もう僕は駄目なんじゃないかと思ったが

 

そんな思考も一瞬よりも早い刹那で消え失せた。

 

ずっと叫んでると、仕舞いには喉が痛んでくる。

 

きっと彼女の耳は、それ以上に痛むのだろうが、彼女は何も言わない。

 

僕は乱れた呼吸を整えようと、咳き込んだり深呼吸したりを繰り返した。

 

なかなか鳴り止まない嗚咽を、彼女はどんな気分で聞いていただろう。

 

憐れに思っていたのか、同情していたのか、

 

ただ無心で耐え忍んでいたのか、もはや聞いてすらいなかったのか。

 

結局、落ち着きを取り戻すまでには、たっぷり十分ほどかかった。

 

僕が黙り込むと、入れ替わるように彼女はしゃくりあげ始めた。

 

「落ち着いた? もう、大丈夫だよ」彼女は言う。

 

後のほうは、密着していても聞き逃してしまいそうなほど、か細かった。

 

服の肩の部分が、あたたかい何かで湿っていく。

 

彼女の吐息が、皮膚を熱くさせる。

 

身体がきつく締められていく。震えが伝わってくる。

 

僕は何も言うことができず、酷い疲労感と柔らかい香りに包まれながら、無意識の中に沈んだ。

 

 

目を開く。光は届かない。

 

涙が浮かんでも、眼前に広がる暗黒は滲みすらしない。

 

八月二十三日。蝉が鳴いている。

 

今は何時なのか。

 

今日は晴れなのか、曇りなのか。さっぱり分からない。

 

僕はどこで眠っていたんだろうと、手の届く範囲を探った。

 

感触で、どうやらソファーの上らしいことが分かる。

 

座り込むような体勢で眠っていたようだ。

 

そのまましばらく辺りを探っていると、何かに触れた。

 

あたたかい。掴んで形を確認すると、人の手だった。

 

「起きてる?」僕は訊いた。

 

「眠たい」すぐ近くから、彼女の声が聞こえた。

 

彼女は隣で、僕と同じような体勢で眠っていたらしい。

 

「昨日は、ごめん」

 

「いいよ、別に。好きでやってるんだから」

 

「君はいつもそれだよね」

 

「好きなんだから仕方ないでしょ」

 

「ありがとう。少し気分が楽になった」

 

「そっか。なら良かった」彼女は僕の頭を乱暴に撫でた。

 

「じゃあ、今日はどうしようか?」

 

「どうするかの前に、まず訊きたいことがある。いま何時なんだ?」

 

「九時二十七分十一秒。十二秒、十三秒……」

 

九時だって?

 

久しぶりにぐっすりと眠ったことに驚いたが、もっと気になることがある。

 

「仕事、行かなくていいのかい」

 

「今日は休みになった」

 

「いつ?」

 

「さっき」

 

馬鹿じゃないのか、と言いそうになったが唾を飲み込んで制止した。

 

「僕なんかに構ってたら駄目になるよ」

 

「とことん駄目になってあげようじゃないの」

 

「馬鹿じゃないのか」我慢できなかった。

 

「わたしはどこまでも馬鹿になれるよ」彼女の声は真面目そのものだった。

 

「大体ね、昨日あんなに泣きついといて、

 

次の日になったら『仕事行かなくていいのか』だなんて都合が良すぎるのよ」

 

確かにそうだ。でも僕は、もう君の足枷でありたくないんだ。

 

声にしようとした言葉は、喉にへばりつく粘り気のある痰に絡みとられてしまった。

 

でも、これでいいんだ。そう思えた。

 

言う必要はないのかもしれない。

 

言っても、彼女は「自分勝手なことを言うな」と憤るだろう。

 

その姿がくっきりと瞼の裏に浮かぶ。彼女の怒っている姿が。

 

そのことが、たまらなく嬉しい。

 

「なに泣いてんのよ」

 

「嬉しいんだ」僕は嘘を吐くのが苦手なので、正直に言った。

 

「僕は、ちょっと優しくされただけで喜んで、

 

すぐにぼろぼろ泣くようなちょろいやつなんだよ」

 

「はいはい。知ってるよ」彼女は素っ気ない返事をして、僕の頭の上に手を置いた。

 

それから十分間ほど、お互い身動きせずに沈黙を貫き通した後、

 

彼女は「部屋の掃除でもしようか」と、その沈黙を破った。

 

そして、僕の頭を押さえて立ち上がる。

 

僕は何も言えなかったが、彼女はひとりで汚い部屋の掃除を始めた。

 

掃除といっても、大量のゴミ袋を外に出して、

 

床に散らばったテレビの破片をかき集めるくらいで終わるだろう。

 

あとは掃除機でもかけておけばいい。

 

しかし、今の僕にはそんな簡単な動作もこなせない。

 

手伝おうと思っても、足手まといになるのがオチだ。情けない。

 

玄関扉が開いたり閉まったりするたびに、彼女の声が聞こえる。

 

きっと、わざとそうしてくれているんだろう。また泣きそうになる。

 

数十分それを繰り返して、やがて彼女は僕の隣に座り込んだ。ソファーが弾む。

 

「はあー、疲れた。暑い。ちょっと休憩」

 

彼女は長い息を吐き出した。彼女の匂いを強く感じる。

 

「冷蔵庫の中から勝手に何か飲んでくれ」僕は手で彼女を扇いだ。

 

「何かって、お茶しか入ってなかったけどね」

 

「なんだ、もう見たのか」

 

「寂しい冷蔵庫だったねえ。まさに男の一人暮らしって感じ」

 

「あんまり褒めないでくれ。また泣きそうになるから」

 

「はいはい」彼女は味気ない返事をした後、何かを僕の頬に押し付け、

 

「ところで、さっき見つけたんだけど、これは何かな?」と続ける。

 

「僕が訊きたいんだけど」

 

ざらついた紙の様な感触だ。それに、ちょっと埃っぽい。

 

「わたしとずっといっしょにいられますように、って書いてあるよ。んー?」

 

「ああ」すぐに思い出した。すっかり忘れていた。

 

そういえば書いたっけ。「七夕のときの短冊かな」

 

「そんな感じだね」彼女は吹き出した。

 

「よくこんな恥ずかしいこと書いて部屋に吊るしてられたもんだよ」

 

「僕はロマンチストなんだよ」恥ずかしい。顔が焼け落ちそうだ。

 

「女の子みたいだね」

 

「冷蔵庫は寂しいけどね」

 

「じゃあ君は、男と女のちょうど真ん中ってところかな」

 

「その言い方だと、僕が変態みたいに聞こえるんだけど」

 

「違うの?」

 

「酷いな」

 

「ほら、わたしの小さい胸が好きだって前に言ってたじゃないの。変態」

 

「いつの話をしてるんだ」言ったような、言ってないような。

 

それに、それはまた別のベクトルの変態のような気がする。

 

「じゃあ訊くけど、今は嫌いなの? わたしの胸」

 

「好きだ」僕は即答した。

 

「やっぱり変態じゃないの」

 

「酷いな」

 

「お互い様よ」

 

休憩後、彼女は部屋に掃除機をかけてから

 

破損したテレビをもとの位置に直したらしい。

 

液晶画面が割れているので、テレビとしてではなくインテリアとして活用するようだ。

 

画面の吹っ飛んだテレビはおしゃれなんだろうか。

 

僕には彼女の感性がよく分からない。

 

「ふう、綺麗になった」彼女は、ふたたび僕の隣に勢いよく座り込んだ。

 

ソファーが軋む。「ちょっと休憩」

 

「お疲れ様」僕は団扇で彼女を扇いだ。

 

「まだ終わってないよ。次は君の荷物をまとめる」

 

「え? どういうこと?」

 

「君をわたしの家に連れていく」

 

「ちょっと待ってくれ。そこまでしてくれなくても僕は大丈夫だって」

 

「大丈夫じゃない。君が何と言おうと連れていくよ」

 

「ただの拉致じゃないか」僕は脹れた。

 

「それから監禁だね」彼女はたぶん笑っている。「悪いようにはしないよ?」

 

「完全に悪者の台詞なんだけど」

 

「何が不満なのよ。わたしの家がいやなの?」

 

「いやじゃない」僕は即答した。「いやじゃないけど」

 

「じゃあ、さっさと君の下着のある場所を教えて」

 

彼女には敵わない。

 

荷物をまとめるのに大した時間はかからなかった。

 

荷物といっても、今の僕にとって必要なのは衣類と携帯電話と父の財布くらいなもので、

 

大きな鞄は冷蔵庫と同じくらいスカスカだ。

 

彼女は鞄を車に持っていくために、一度外に出た。

 

僕はソファーに座り込みながら、考える。

 

また迷惑を掛けることになってしまうのか、と。

 

ほんとうに、何も変わっていない。僕はもちろん、彼女もだ。

 

彼女は、また手を引っ張って、僕を暗闇から引きずり出そうとしてくれている。

 

僕は、また差し伸べられた手にしがみつこうとしている。

 

彼女は「好きでやっている」というが、ほんとうなんだろうか?

 

何百回も同じようなことを考えてきた。

 

いつも答えは出せなかった。保留だ。

 

訊けば終わることだが、彼女の口から出てくる言葉が

 

真意とは限らないと、どうしても疑ってしまう。

 

何度も助けてもらったのに

 

見捨てられるかもしれないという不安が風船に空気を注ぐ。

 

だから、疑ってしまう。僕は最低だ。

 

見捨てられたとき、「やっぱりな」と思うことで、傷を浅く済ませようとしている。

 

もちろん見捨てられたくないとは思うが、未来で何が起こるかなんて全く分からない。

 

可能性はゼロではないのだ。限りなくゼロに近いとは信じているが、ゼロではない。

 

そもそも、見捨てられたら僕は死んでしまうのだが。社会的にも、肉体的にも、精神的にも。

 

僕にはどうすることもできない。

 

僕に唯一できることといえば、目を閉じて、

 

誰かが崇めるような胡散臭い存在に祈り続けることだけだ。

 

どうか、僕らを救ってください――、と。

 

「よし。オッケー」正面から彼女の声が聞こえた。

 

いつの間にか帰ってきていたらしい。

 

彼女は続けて「じゃあ、行こうか」と言うと、僕の腕を引っ張って、自身の首に巻きつけた。

 

「何してるのさ」目が正常だったなら、おそらく眼前には彼女のうなじがあるのだろう。

 

平常を装っているつもりだが、そこから漂う香りが頬を高潮させ、心臓を激しく揺する。

 

「車椅子めんどくさいし、おんぶしていこうかなと思って」

 

彼女は僕の脚を掴み、立ち上がる。「うわ。脚、細いね」

 

なんてこった。女の子に背負われてしまった。「大丈夫? 重くない?」

 

「軽すぎて、なんかわたしの知ってる君じゃないみたい」

 

「そっか」僕じゃないみたい、か。

 

あながち間違いではないのかもしれない。

 

見た目はもちろん、根っこの部分も腐り始めているような気がする。

 

「ちゃんと掴まっててね」彼女は歩を進める。身体が上下に揺れる。

 

「分かった」腕を彼女の身体に巻きつける。

 

僕は彼女の背中に密着している状態になった。

 

心臓が早鐘を打っている。一向に鳴り止まない。むしろ感覚は短くなってゆく。

 

これは明らかに彼女の骨くらいにまで響いている。

 

彼女はどう思ってくれているのか、頭にはそのことしかなかった。

 

胸の辺りに、人のぬくもりが伝わってくる。

 

やがてそれは僕の身体中に広がり、心地良い安らぎを与えてくれた。

 

彼女の肩に火照った頭を置き、思いっきり息を吸い込んだ。

 

彼女の声が聞こえて、彼女の体温を感じられて、彼女の匂いがする。

 

もう、それでいいじゃないかと感じてしまう。死んでもいいのかもしれないな、と。

 

もう一度深呼吸すると、「くすぐったいよ」と小さな声が聞こえた。

 

しばらくすると、柔らかい椅子の上に放り投げられた。車の助手席だろう。

 

「もう終わりなのか」

 

「何が」彼女は僕の右隣で言った。おそらく運転席に座っているのだろう。

 

「おんぶ」

 

「なに、もっとしてほしかったの?」

 

僕は黙って頭を縦に振り、肯定の意を示した。

 

もう隠すのも誤魔化すのも、めんどくさい。

 

もう隠さなくても、誤魔化さなくてもいいんだ。

 

「また後でね」彼女の声に被さるように、スピーカーから音楽が流れ始めた。

 

僕の意思が彼女に伝わっているというのが、たまらなく嬉しい。

 

彼女は、きっと僕を見てくれている。

 

 

真っ暗だ。聞こえる音も変わらない。

 

でも、匂いが違う。

 

彼女の家の匂いだ。

 

視覚が死んでしまったせいか、

 

やたらと聴覚と嗅覚が研ぎ澄まされているように思える。

 

次は味覚か、聴覚か、嗅覚か、触覚か。

 

それとも、全部一気に駄目になるか。

 

全部飛び越えて、頭が駄目になる可能性だってある。

 

よく分からない。

 

僕はふたたび彼女に担がれ、十階の部屋まで連れてかれた。

 

階段で上れば、より長い時間を彼女の背中で過ごすことができたのだが、

 

さすがにそれは彼女に悪いと思わざるを得なかったので、

 

黙ってエレベーターで昇ってきた。

 

彼女の背中で過ごしている時間は、実際には

 

二、三分ほどなのだろうが、もっと短く感じられてしまう。それこそ、一瞬のように感じる。

 

それに比べ、ひとりでいた時間は、永劫の中に閉じ込められたような苦痛を感じていた。

 

知らない間に、時間の感覚がおかしくなってしまったんだろうか。

 

しばらくすると、柔らかい何かの上に放り投げられた。

 

ソファーか? それにしては少し硬い。

 

「よし。じゃあまずは、わたしの布団で寝るか、ソファーで寝るかを選ばせてあげよう」彼女は言う。

 

「ソファーで」僕は即答した。

 

「何?」

 

「ソファー」

 

「んー?」

 

「……」彼女の中では答えは決まっているらしい。

 

真っ直ぐな人ってのは、なかなか厄介なところがある。

 

特に、僕のように根っこが腐っていて捻じ曲がりそうな人間にとっては。

 

「病人は病人らしく布団で寝なさいよ」彼女は嬉しげに言った。滅茶苦茶だ。

 

「結局選べないんじゃないか。なんで訊いたのさ」

 

「『君の布団で寝たい』って言ってくれると思って」

 

「ほんとうはそうしたいところだけど、君の布団が無くなるじゃないか」

 

「わたしはソファーでも寝られるし、ふたり同じ布団で寝ることもできるよ」

 

「冗談だろ」

 

「わたしと寝るのはいやなの?」

 

「いやじゃない」僕は彼女の声に被せて言った。「いやじゃないけど」

 

「けど?」

 

「僕といっしょに寝るのは、いやじゃないかと思って」

 

「なんでそう思ったの?」

 

「だって、君が朝起きたら、隣に片腕と片足がなくて目の焦点の合ってない男がいるんだよ?」

 

「だから何なのよ」彼女は言い張る。

 

僕は踏ん張った。「そんな気持ち悪いやつに襲われるかもしれないんだよ?」

 

自分で言っておいて、悲しくなる。

 

同時に、思い出した。

 

今の僕は、腕と脚が無くて目の焦点の合ってない気持ち悪い野郎なんだ。

 

「わたしのこと襲っちゃうの?」

 

「襲わない。襲わないけどさ」

 

「襲わないの?」

 

「襲わない」

 

「じゃあ同じ布団でも大丈夫だね」

 

「やっぱり襲うかもしれない」

 

「それでも同じ布団で大丈夫だね」

 

「もういい。分かった」彼女には敵わない。

 

こうなったら、もう諦めるしかない。「君の布団で寝させてもらう」

 

「最初から正直にそう言えば良かったのに」

 

「君はほんとうに滅茶苦茶だな」

 

「滅茶苦茶じゃなくて、真っ直ぐって言ってほしいかな。まあ、そんなことよりも」

 

真っ直ぐな彼女は話を無理やり折り曲げた。

 

「そろそろお昼だよ。何か食べたいもの、ある?」

 

「食べたいものねえ」真っ先に浮かんだのは、くだらない冗談だった。

 

言ったら怒られるだろうか。どうだろう。

 

今なら怒られないような気もするけど、結局恥ずかしくて言えなかった。

 

代わりに、「言わなくても分かってるんじゃないの?」と言ってやった。

 

「あれだよね」と彼女は呆れ気味に答える。

 

「あれだね」

 

「ほんとうに好きだよね」

 

「大好きだよ」

 

「わたしとどっちが好き?」

 

「迷うなあ」

 

「迷わないでよ」

 

「僅差で君の勝利かな」

 

「僅差なんだ」

 

結局、お昼はふたりで仲良くスパゲッティを頬張った。

 

 

「いざ寝るとなると恥ずかしいもんだね」

 

彼女がそう言うので、結局ひとつの布団の上でお互いに背を向け合って、

 

触れない程度の距離を保って眠ろうということになった。

 

身体が布団からはみ出している。おそらく彼女も似たような状況なんだろう。

 

「何やってるんだろう、わたしたち」

 

「さあ」

 

「なんか馬鹿みたいだよね」

 

「確かに」彼女が言いたいことを全部言ってくれたので

 

僕はそれ以上は特に何も言わなかった。彼女もそれっきり黙り込んだ。

 

居心地の良い沈黙が訪れる。

 

時計の音と、エアコンが冷風を吐き出す音が室内に響く。

 

「今の僕は幸せなんだろうなあ」だとか、「このままでいよう」

 

などと思いながらも、僕は何故か喋り出してしまった。

 

「君の家で寝ると、いやな夢を見るんだ」

 

始めてここで眠ったときのことを思い出したのだ。

 

「いやな夢って?」

 

「君が僕を見捨てて走り去っていく夢、とか」

 

「夢の中のわたしは酷いやつなんだね」

 

「『わたしはレズビアンなんです』とか衝撃の告白をして走ってったんだ。

 

夢の中の僕は、『は?』って言った後にわんわん泣いたね」

 

「馬鹿じゃないの? 普段からそんなくだらないこと考えてるから夢に出るのよ」

 

「心外だな」

 

「じゃあ普段は何を考えてるっていうのよ」

 

「ある女の子のことを考えてるんだ。その娘のことを考えると夜も眠れない」

 

「馬鹿じゃないの」

 

それっきり、僕も彼女もだんまりだった。

 

仕舞いには彼女の寝息が聞こえてきた。

 

もちろん僕はほとんど眠れなかった。

 

 

途切れる意識の中で、ぼやけた夢を見た。

 

彼女が、僕から遠ざかっていく、夢――

 

続く

 

 

見えなくても分かる。

 

僕がここに連れ去られてから約二週間が経って、彼女は疲れてきている。

 

たったの二週間だが、心身にかかる負担は相当なものなんだろう。

 

仕事が終わっても家には木偶の坊がいて、

 

そいつの世話をしてやらなくちゃならないのだから、たまったものではない筈だ。

 

仕事も上手くやっているのだろうかと、心配になってしまう。

 

それでも彼女は僕に疲労の色を見せまいと、

 

普段と同じように振舞ってくれている。

 

好きなアーティストの新譜が出ただとか

 

好きな作家の本が出るだとか、同僚とこんな話をしたとか

 

中学校のころの友人にあった(僕のことは憶えていなかったけど、なんとか思い出させたらしい)だとか

 

何でもない話を冗談を交えて話してくれる。

 

それを聞いていると、ものすごく息苦しい。

 

彼女の手で圧迫されているかのように、とにかく胸が痛む。

 

彼女の内側には彼女ではない何かがいて、

 

そいつが今の彼女を無理やり突き動かしているように思える。

 

後戻りできなくなって、やけくそになっているんじゃないかと疑ってしまうほど、今の彼女は明るい。

 

僕の目が正常だったなら、きっと眼球が潰れてしまうほど眩しいんだろう。

 

九月九日。外では激しい雨が降っている。

 

「おやすみ」彼女はそう言い残し、今日も死んだように眠る。

 

疲弊しきった身体を無理矢理押さえつけ、意識を無意識に沈める。

 

ほんとうに死んでしまったんじゃないかと不安になるが、

 

ときどき聞こえてくる寝息が僕を安堵させ、同時に、それをたまらなく愛しく思う。

 

背中が触れるたびにあたたかい何かが伝わってきて、息が苦しくなる。

 

咳き込んで、鼻を啜った。

 

それから目を開いて暗黒を見つめながら、無駄なことを考える。

 

何度も何度も何度も、考える。

 

彼女は何のために生きているんだ?

 

自分の心身を削いで、足枷を愛でて、死んだように眠る。

 

「大丈夫」とは言ってくれているが、ほんとうにそうなのか?

 

僕が言えた身ではないのは承知だが、そう考えてしまう。

 

果たして僕には、彼女のもとの生活をぶっ壊して、

 

その心身を酷使させるほどの価値があるのだろうか?

 

馬鹿だな。そんなの分かりきってることだろ。

 

そうだよな。

 

お前は昔からそうなんだよな。悪い方向にだけは、ぐんぐん進めるんだ。

 

良い方向になんて進めても、尺取虫にすら追いつけやしない。

 

そうだな。

 

ちょっとくらい信じてみたらどうなんだ。

 

信じてるけど、彼女が壊れたら元も子もないじゃないか。

 

彼女は壊れないって信じろよ。

 

彼女が自滅するようなことはないと信じているけれど、

 

僕が彼女を壊してしまう可能性は、ある。

 

壊すってのは、女として? 人間として?

 

どっちもだ。

 

お前にそんな度胸があるのかよ。

 

可能性の話だろうが。

 

じゃあ、どうするんだ?

 

ここから出ていく。

 

お前にそんな度胸があるのかよ。

 

度胸とかじゃなくて、限界なんだ。

 

彼女じゃなくて、僕が耐えられなかった。風船が割れちまったんだ。

 

風船?

 

希望みたいなもんさ。

 

罪悪感に潰されちまう程度の希望か。

 

無くなったところで大したことないだろ。

 

そうなんだ。まともな人間ならそうだ。

 

ところが僕にとって、それは唯一の希望だった。

 

ちゃっちい希望だな。

 

僕にはぴったりだ。

 

で、いつ逃げるんだ? 一週間前くらいからずっと同じこと言ってるけど。

 

今日。

 

それ聞いたの八回目なんだけど。

 

今日だ。

 

九回目。

 

今日だ。

 

十。

 

死んじまえ。

 

八十五。まあ何でもいいけど、頑張れよ。

 

お前もいっしょに来るんだよ。

 

僕は大事なものを捨てなきゃなんないんだ。大事なもののために。

 

布団の外に腕を伸ばし、周囲を探る。

 

特にこれといったものはなかったので布団から這い出し、

 

ひとつずつの手と脚で身体を引き摺りながら寝室の戸に向かった。

 

扉をさするように触りながら、ドアノブを探す。

 

二秒も立たずに見つかった。

 

力をかけて扉を開き、隙間から這い出る。

 

廊下には身体が溶けてしまうんじゃないかと思えるほどの熱が籠っていた。

 

その廊下の壁を伝い、今度は玄関を目指す。

 

目的地には三十秒もかからずに辿り着いた。

 

鍵とロックを外し、寝室のときと同じように扉を開け、隙間から外に出た。

 

扉が重い音を鳴らして、閉まる。

 

辺りは静寂に包まれることなく、雨が爆音で地面に撃ちつけている。

 

この音で彼女が起きてこないかと心配になったが

 

同時に、僕が逃げ出したことに気付いてほしいとも思った。

 

しかし、一分ほどそこに留まっていても、扉は開かなかった。

 

もしかしたら、雨音で聞こえなかったのかもな。

 

いや、これでいいんだ。

 

僕は考えながら、階段を探すために壁を伝って這いだした。

 

階段は程無く見つかった。

 

深呼吸して歯を食いしばり、そこから転げ落ちた。

 

壁に激突し、止まる。腕と後頭部に強い痛みが通り抜ける。

 

ここの階段はしっかりとした壁があったはずなので、おそらく死ぬことは無い。

 

まあ、仮令ここに壁が無かろうと、何の問題もなかったが。

 

もう一度転げ落ち、九階に辿り着いた。

 

一階に下りるには、これをあと十八回繰り返さなければならない。

 

途中で死なないといいけど、すでに身体中が痛む。

 

ほら、早く行けよ。彼女が起きてくるぞ?

 

頭の中の僕が哂う。

 

そいつを歯で潰し、そのままもう一度、転げ落ちた。

 

痛い。

 

声が漏れそうになる。

 

漏れたところで雨音に上塗りされて誰の耳にも届かないのだろうが、必死に堪えた。

 

口元を熱いものが伝った。

 

口の端が切れている。

 

これは、血か。

 

歯を食いしばり、八階に向かった。

 

それからしばらくすると、自分が何階にいるのか分からなくなった。

 

なんにも分からなくなった。

 

今、自分は何故、階段を転がり落ちているのか。

 

何故、エレベーターで行かずに、階段なのか。

 

何故、僕はこんな身体なのか。

 

何故、光が見えないのか。

 

何故、彼女はここにいないのか。

 

頭の内側で問いかけても、返ってくるのは外側で轟く雨音だけだった。

 

しばらく壁に凭れながら考えていると、なんとなく分かっていたような気がする。

 

僕がエレベーターではなく階段を転げ落ちているのは、時間を稼ぐためだろう。

 

彼女が僕を見つけてくれるまでの、時間を。

 

それと、自分を痛めつけることによって、許されようとしている。

 

何に対して? 分からない。

 

光が見えないのは、罰か。

 

暗い部屋に籠っていたのがまずかったのかな。

 

ならば、どうして彼女はここにいない。分かっているのか?

 

彼女はここにいない。

 

彼女はここにいない。

 

彼女はここにいない。彼女はここにいない。

 

彼女は、ここにいない。

 

今、彼女は、お前の隣にいないんだ。

 

どうして? 僕が逃げ出したからだ。

 

なんで逃げ出した? 彼女を苦しませたくなかったから。

 

ほんとうは? 僕が耐え切れなかったから。風船が割れたから。

 

だから、早く逃げるんだ。

 

僕は腫れあがった身体を引き摺って、階段を転がった。

 

そのとき、声が聞こえた。

 

声というよりは、悲鳴だった。

 

「ひっ」という男の声の後に、ばたばたと喧しい足音が鳴る。

 

おそらく、その声の主に見られたんだろう、今の僕の姿を。

 

驚くのも無理はない。

 

雨の日の夜、全身――もちろん、目も含む――を腫らして、

 

片手片脚のもげた化け物が階段から転がり落ちてくるのだ。

 

目の焦点が合っていないから、なおさら性質が悪い。

 

驚くなというほうが無理な話だ。

 

永劫とも思えるような時間が過ぎた。

 

しかし彼女は現れない。

 

仕舞いに転がる階段が見当たらなくなった。一階に辿り着いたのだ。

 

壁を伝い、エントランスの出口を探す。

 

あとひとつ扉を押せば、外だ。

 

普通なら一分もかからずに扉には辿り着けるのだろうが、五分ほどかかってしまった。

 

触れた壁を押し、動くか確かめていると、こうなってしまった。

 

僕は力いっぱい扉を押し、外に転げ出た。

 

ひんやりとした石が、心地良く感じる。

 

跳ねた雨粒が、身体を濡らす。

 

屋根の下なのに、あっという間に服が身体に張り付いた。

 

汗のせいかもしれない。

 

それでも彼女は現れない。

 

異常に重い身体を引き摺り、外の世界に這い出た。

 

激しい雨が、身体を貫くように降り注ぐ。

 

僕の汚い部分だけを洗い流してくれるんじゃないかと期待していたが、そんな効果は微塵も無かった。

 

ただ、雨は降る。

 

どこへ向かおうか。

 

途切れそうな意識で、考える。

 

しかし、すでに身体は限界だった。

 

ゴール、あるいはスタートを目前にして、動けなくなってしまった。

 

最後の力を振り絞って、少し進んだ。

 

そこで、何か柔らかいものに触れた。

 

すでにそれは懐かしい感触だった。

 

僕は、それ――ゴミ袋に寄りかかった。

 

乾いた音が、湿った雨音に重なる。

 

最後はゴミ捨て場から燃えるゴミといっしょに持ってかれて焼かれるのか。

 

なかなか悪くないだろ。

 

つまんない人生だったな。

 

そうでもないよ。

 

そうか?

 

思い出してみると、いろんな事があったもんだ。

 

そうだな。

 

彼女が僕を見つけてくれて、触れてくれて、捕まえてくれて――

 

――僕は彼女に出会った。

 

彼女は僕を引きずり出してくれて、包んでくれて、癒してくれて――

 

――僕は彼女に出会った。

 

彼女は僕を見つけてくれた。彼女は僕を見つけてくれたんだ。

 

あの娘のことばっかりじゃないか。他にはないのかよ。

 

ほんとうだな。馬鹿みたいだ。

 

泣くなよ。

 

言い損ねたことがたくさんあるんだ。お礼も言ってないし、ちゃんと謝りたいんだ。

 

なら、今から階段を這い上がれよ。

 

身体が動かないんだ。

 

なら、このままここで野垂れ死ねよ。

 

もう一度だけでいい、声が聞きたいんだ。

 

なら、黙って耳を澄ませろよ。ほら、聞こえるだろ?

 

「何してるの?」

 

ああ、聞こえた。

 

雨音にかき消されることなく、はっきりと胸の空洞に、こだました。

 

今、彼女は僕の隣にいる。

 

「君こそ、こんなところで何してるのさ」

 

しかし僕は、この期に及んでもそんなことを言った。

 

口の中が痛い。苦痛に唇が歪む。

 

きっと今の僕は化け物じみた貌をしているんだろう。

 

「そんなにわたしが信用できないの?」

 

彼女は僕の言葉を無視し、言う。それから僕の手を強く握って続けた。

 

「信じて。わたしは君を置いていったりなんかしない」

 

僕は何も言えなかった。

 

「わたしはここにいるよ。分かるでしょ?」

 

僕は何も言えなかった。

 

「お願いだから、いなくならないで」

 

「……知ってると思うけどさ、僕は昔からこうなんだ」

 

ようやく喉から滑り出したのは、くだらない自虐だった。

 

「いくつかの選択肢が目の前にあったとき、

 

僕はいつも間違いを選んでしまうんだ。

 

仮令、百の道のうちの九十九が正解だったとしても、必ず間違うんだ。

 

まるで、僕の選んだ道が正解であったとしても、

 

進み始めた瞬間に間違いに変わってしまうように感じる。

 

それで僕は今、また間違えたんだ。

 

でも君はいつも正しい。どこに進んでも正解なんだ。

 

君の後を追えば、僕もそういう人間になれると思ってたけど、それも間違いだった。

 

きっと、根っこの部分が違うんだろうな。

 

僕は君のそういうところが、ものすごく羨ましい。

 

そういうところに憧れて、焦がれるんだ」

 

「そんなことない」彼女は僕の冷たくて汚い身体を抱き寄せた。

 

「君は正しい。きっと今回は、これが正解なんだよ」

 

これが、正解――僕が、正しい?

 

頭の中が、ノイズのような雨音で埋まっていく。

 

僕には彼女の言葉の意味が理解できなかった。

 

 

彼女は僕を抱きかかえ、階段を上り始めた。

 

いくら今の僕が軽いといっても濡れた布が張り付いているし、

 

目指すのは十階だから、彼女にかかる負担は相当のはずだ。

 

「エレベーターで行こうよ」僕は言った。

 

「やだ」彼女はそのまま階段を上がる。

 

身体中が痛い。身動きひとつできやしない。

 

しかし彼女に抱きかかえられているというのが、ものすごく心地良い。

 

まるで赤ん坊にでもなったような気分だった。

 

「ねえ」彼女は、ゆっくりと階段を上る。

 

「君は、どこに行こうとしてたの?」

 

「さあ、どこだろう。どこか遠い場所、かな」

 

「なんにも考えてなかったってわけだ」

 

「君に助けてもらいたいって、結局、頭の中はそればっかりだった」

 

「そう」彼女は素っ気ない返事を残すと、口を閉じた。

 

長くはないが、短くもない。

 

雨音と足音だけが響き、彼女の匂いと雨の匂いが漂う。

 

そんな濃い時間は過ぎ、僕らは家に戻ってきた。

 

「お風呂、入ろうか」彼女は僕を床に下ろし、言う。

 

くたびれている様子だった。

 

口数が少し減っているように思える。「頭洗ったげる」

 

「ごめんよ。身体が動かないんだ」

 

「じゃあわたしが服脱がすけど、いいかな」

 

「君がいいんなら、僕はいいけど」

 

「もう今更恥ずかしいも何もないよね」

 

「恥ずかしいに決まってるだろう」

 

「そうなんだ」

 

「『僕は大丈夫だよ』なんて言っても無駄なんだろ」

 

「よく分かってるじゃないの」

 

「でも、できるだけ前は見ないでほしいかな」

 

「その心は?」

 

「たぶん、あれだから」

 

「ああ、あれね。あれなら仕方ないよね」

 

あれってどれなんだろう、と考えていると、

 

彼女は僕の肌に張り付いた服と格闘を始めた。

 

上の服が脱げるまで、四十秒ほどの時間を使ってしまった。

 

次いでズボンに手をかけたところで、

 

僕は思わず「ちょっと待って」と言った。

 

「何」

 

「ズボンは自分で頑張ってみてもいいかな」

 

「別にいいけど、動くの? 腕」

 

「なんとか」僕は腕を適当に揺すった。痛い。

 

「じゃあ、その間にわたしが脱ぐ」

 

「やっぱり、いっしょに入るんだ」

 

「うん」

 

なんとなく予感はしていたが、いざとなると口から内臓がこぼれ落ちそうになる。

 

「今更恥ずかしくも何ともないって?」

 

「いや、恥ずかしくて死にそう」

 

「僕の目が見えなくて良かったね」

 

確かに隣で彼女が服を脱いでいるのを見ることはできないが

 

そうでなくても僕は顔が焼けそうだった。

 

「良くない」彼女は少々怒気を孕んだ声で呟く。「ぜんぜん良くない」

 

また余計なことを言ってしまったようだ。

 

水を吸った重い布が床に落ちて、いやな音を鳴らす。

 

それは彼女のパジャマの上なのか下なのか、それとも下着なのか、

 

とにかく僕は急いでズボンと下着を脱ぎ、タオルを腰に素早く巻いた。

 

それから痛む身体をなんとか引き摺りながら床を這い、風呂椅子の上に座った。

 

数秒後、思いっきりお湯を頭から浴びせられた。身体中がひりひりと痛む。

 

「人の頭を洗うのって、久しぶりかも」彼女は僕の頭に両手を置きながら言う。

 

「へえ。誰のを洗ったんだい」

 

「お父さんか、お母さんか、弟か、誰だったかな。ずっと昔のことだから、忘れちゃった」

 

彼女は両手に泡を立て、頭を擦り始める。「君の髪、思ったより長いね」

 

「まあ、だいぶ長い間切ってないからね」

 

「もっと綺麗にすればいいのに」

 

「髪切ったらかっこよくなるかな」

 

「ないね」彼女は言いきった。

 

「今の君は最高にかっこ悪い。見た目とかじゃなくて、内側が。

 

髪切ったくらいじゃ変わらないよ」

 

「分かってるけど、実際に言われるとちょっと傷つくな」

 

「でも、かっこ悪いのと魅力がないのは違うよ。かっこ悪くても魅力がある人はいる」

 

「僕は?」

 

「さあ、どうかな」

 

「まあ、別にどうだっていいんだ。かっこいいとか、かっこ悪いとか、

 

魅力があるとか無いとか。どうせ誰も見ちゃいないんだし」

 

本心だったが、どうも強がりを言っているようにも思える。

 

自分自身でもよく分からなかった。

 

「それに、僕はちょっと長い髪のほうが好きなんだ」

 

「どうして?」

 

「落ち着くし、なんか、生きてるって感じがする」

 

「よく分かんない」

 

「そっか」

 

彼女は口を結び、僕の頭を優しく擦る。

 

あまりの心地良さに、微睡んでしまいそうになる。

 

「人に頭を洗ってもらうのって、どうしてこんなに気持ちいいんだろう」

 

黙っていると、ほんとうに眠ってしまいそうだった。

 

「そんなに気持ちいいの?」

 

「寝ちゃいそうだ」

 

「寝てもいいけど、どうなっても知らないよ」

 

「君が僕を風呂場に置いていくとは思えないな」

 

「寝てる間にわたしに襲われても知らないよ」

 

「君に襲われるんなら、別に僕はいいけど」

 

「襲ってやりたいところだけど、わたしもちょっと眠いかな」

 

「そっか」

 

彼女は手を止め、僕の頭のてっぺんに勢いよくお湯を浴びせた。

 

泡が頬を伝い、身体にへばりつきながら落ちていく。

 

右脚の皮膚の内側から木屑のようなものがこぼれ落ち、水を跳ねさせる。

 

それから僕は彼女に抱えられ、浴槽に投げられた。

 

水面に身体を打ちつけ、勢いよく水が飛沫を上げる。痛い。

 

何が起こったのか、とっさには理解できなかった。

 

冗談ではなく、ほんとうに溺れてしまうかと思った。

 

「な、何するのさ」鼻に水が入り込んだようで、気色が悪い。咳き込んだ。

 

「わたしが髪を洗ってる間、湯船に浸かってもらおうと思って」彼女は淡々と言う。

 

「それにしても、もっとやり方があるだろう」

 

「わたしなりの愛情表現よ」

 

「なら仕方ないか」

 

僕は反論を諦めて、湯船に浸かった。

 

あたたかくて、瞼が異様に重い。

 

全身から痛みと力が流れ出ていくような心地良さに包まれる。

 

体液さえも流れ出ていってるように感じられる。

 

目を閉じると、瞼の裏に彼女の笑った顔が見えた。

 

嬉しくなって、笑みがこぼれる。

 

このまま眠ったら、幸せな夢を見ることができるような気がした。

 

しかしそのとき、顔に大量のお湯が飛んできて、僕の意識は半覚醒から呼び戻された。

 

「今度は何だ」

 

「何だと思う?」彼女は僕の正面で言った。

 

「愛情表現?」

 

「惜しいかな」

 

「じゃあ何だ」

 

「何だろう。気付いたら飛び込んでた」

 

「ちょっと待って。今、君は僕の正面にいるんだよね。こっちを向きながら喋ってる」

 

「うん」彼女は僕の頬に触れた。僕は急いで身体を反転させた。

 

「こっち向いて」彼女は言う。「逃げないで」

 

「……どうして君は僕に良くしてくれるんだ?」僕は彼女に背を向けたまま言った。

 

「安っぽい答えだけど、好きだから。ほっとけない」

 

「……僕には君を惹きつけるような何かがあるのかな」

 

「そういう魅力が皆無だからこそ、わたしは君をほっとけないのかもね」

 

「酷いな」僕は笑い、つむじを正面に向けながら身体を反転させた。

 

「ちゃんとこっち見て」

 

僕はゆっくりと顔を上げた。

 

「わたしを見て」

 

「見えないよ」生まれたままの姿の彼女を見ることはできなかった。「見えないんだ」

 

「でも、わたしはここにいる」

 

彼女は僕に残された手を掴んだ。「分かるでしょ?」

 

「うん」喉に何かが詰まって、それ以上は何も言えなかった。

 

彼女は黙って僕の頬に手を添え、自身の唇に僕の唇を引き寄せた。

 

それから、ゆっくり離れた。

 

「こんなのじゃ証明にならないかもしれないけど、わたしはほんとうに君のことを想ってるの。だからってわけじゃないけど、もう一度わたしを信じてほしい」

 

僕は崩れて、返事をすることができなかった。

 

代わりに馬鹿みたいに何度も頷いて、彼女の手を強く握った。

 

 

「だから、なんで泣くのよ」彼女は半ば呆れ気味だ。

 

「君が優しくするからだろうが」

 

きっと僕の目は真っ赤なんだろう。咳き込んで、鼻水を啜った。

 

風呂から上がった僕らは飽きもせずに、

 

一時間前と同じように布団の上で喋り合っていた。

 

玄関から逃げ出して、たったの一時間で

 

もとの場所に戻ってきてしまったという事になる。

 

でも、僕らの中の何かは大きく変化したように思える。

 

今度は背中合わせではなく、向かい合って眠ることになった。

 

たったの一時間だが、きっとそれは、時間以上の価値のものを僕らの内側に生み出したんだろう。

 

彼女の言っていた「正解」とは、このことなんだろうか?

 

「あのさ」と僕が彼女に確認しようとがらがらの声を出したとき、

 

それを遮るように「ねえ」と彼女が話し始める。「抱きついていいかな」

 

「どうぞ」僕は咄嗟に答えた。

 

直後に彼女が僕の身体に抱きつき、僕に残された脚に自身の二本の脚を絡ませた。

 

彼女のぬくもりと匂いを、今までに感じたことのないほどに強く感じる。

 

何かを訊こうとしていたような気がするが、忘れてしまった。

 

「あーあ」彼女は長いため息を吐いた。「もっと早くこうしてれば良かった」

 

僕は何も言い返さなかった。言い返せない。

 

彼女の今の言葉に、どういう意味がこもっていたのだろう。

 

僕の最期までの時間が短い、という事なんだろうか。

 

考えてみると、そうだ。

 

医者の言葉がほんとうなら、もう七ヶ月しかないのだ。

 

目が見えなくなったときは長いと思ったものだが、今は全く違う。

 

もっと時間が欲しい――今は、そういう風にしか考えられない。

 

僕にはもっと、時間が必要なんだ。七ヶ月じゃ、足りない。

 

でも、どうすることもできない。

 

僕らは負けるために闘っているのだから。

 

そういうとき、人間はいつもこうするんだ。

 

目を瞑ってさ、こころで叫ぶんだ。

 

神様、お願いします。

 

どうか、どうか僕らを救ってください――って。

 

「ねえ」彼女は小声で呟く。「起きてる?」

 

「起きてるよ」

 

「雨の日って、五月のことを思い出しちゃうよね」

 

「五月」僕は言い、回想する。

 

風景も色も見えていて、彼女の笑顔を見ることができていた頃。

 

初めてここに来たときのこと。

 

僕らの距離は、今ほど近くはなかった。

 

皮肉なことに、この病気のおかげで僕らの距離は急速に縮まったのだ。

 

そいつは永遠に平行で続くはずだった僕らの道を捻じ曲げ、交えさせた。

 

しかし代償は大きかった。

 

僕の道は捻じ曲げられて、壊されてしまった。

 

途中からは、彼女だけの道が続いている。

 

きっとその道は、いつか誰か――僕ではない誰かと、交わるんだろう。

 

悔しいような、嬉しいような、複雑な心境だ。

 

あの雨の日――彼女に風邪をうつされた辺りからだろうか

 

僕の道が彼女の道に向かって歪んだのは。

 

あのとき僕らは、ほんの少しだけ素直になれたように思える。

 

ただ僕は、彼女の前でだけは強い人間でいようとした。

 

数年前に一度情けない姿を見られているのにも関わらず、だ。

 

つまり、そのときの僕には余裕があった。

 

それが間違いだったのかもしれない。

 

今と比べると、他人に笑われても何も言い返せない。

 

もっと早く、あの雨の日に言っておくべきだった。

 

そしたら、もっとふたりの時間が増えていたのかもしれないのに。

 

でも、もう遅い。遅すぎる。

 

「五月というと、僕にまだ余裕があったころか」

 

僕は自分を嘲笑してやった。

 

「そう」彼女は僕に抱きついたまま呟く。

 

「わたしが素直じゃなかった頃だね」

 

「なんか、ものすごく昔のことに思えるよ。

 

あのときは目が見えなくなるなんて、考えもしなかった」

 

「わたしもだよ。あのときから今まで、考えられないようなことがいっぱいあった」

 

「たとえば?」

 

「君に告白されたこととか」

 

「ああ」僕は回想する。七夕の次の日。

 

視界が灰に染まり、脚が重くて仕方なかった頃。

 

彼女の笑った顔が、はっきりと思い出せる。

 

弱々しい蛍の光に包まれた、優しい、僕の好きな笑顔が。

 

「君の実家に行ったこととか」

 

僕は回想する。墓参りに行った日。

 

片脚が無くなり、僕らの距離は、よりゼロに近付いた頃。

 

父は僕に財布を渡してくれた。

 

母は僕をよく見ていてくれた。

 

妹は僕のために悲しんでくれた。

 

祖母は僕にいつでもここに来ていいと言ってくれた。

 

彼女は僕のために闘ってくれた。

 

たくさんの人に迷惑をかけて、僕は今ここにいる。

 

「それで、今日」

 

回想するまでもない。「ごめん」

 

僕らの距離はゼロになり、立ちふさがる壁は無くなった。

 

あとは僕の道のゴールに向かって、ふたりでゆっくり歩いていくだけだ。

 

「君が逃げ出したのは確かにすごく悲しかったけど、

 

いっしょにお風呂に入ってキスしたってほうが考えられないよね」

 

「言葉にして言われると、ものすごく恥ずかしい」

 

「たぶん君以上にわたしは恥ずかしい」

 

彼女は腕に力を込めた。身体が締め付けられる。

 

「でも、なんか夢みたい」

 

「夢か」全部夢だったら、この病気は無かったことになり、

 

僕と彼女がここまで来たというのも無かったことになってしまうんだろうか。

 

そう考えると、夢じゃないだとか夢だったらいいのになんてことは言えなかった。

 

「夢っていうよりは、運命って言った方がしっくりくるかな」

 

「かっこつけた言い回しね。嫌いじゃないよ」

 

「僕がこの病気に罹って、君とここまで来るってのは、きっと最初から決まってたんだ」

 

「そうなのかもね」

 

「運命は変えられるとか言うけど、変わらないよなあ」

 

「変わらないから運命っていうんだよ。たぶん」

 

僕らが黙り込んでも、静寂は訪れない。

 

外では馬鹿みたいな音を轟かせながら、雷が鳴っている。

 

それに張り合うように、雨が爆音を撒き散らしている。

 

「今言っておかないといけない気がするから、言う」

 

彼女は眠らずに、また口を開く。

 

「悪いけれど、君が死んだとしても、わたしは生きてくからね」

 

「うん、是非そうしてくれ」そうは言っても、胸中は泣き出しそうだった。

 

やっぱり僕は死ぬんだろうなと思うと、寂しい。

 

必死に堪えながら、続けた。

 

「君にはもっといい人がいっぱいいるよ。

 

君は綺麗だし、魅力もある。僕とは違うんだ」

 

「……そんな寂しいこと言わないでよ」

 

「……うん」

 

「明日から、いっぱい思い出作ろうね」

 

「うん」

 

「わたしのこと、忘れないでね」

 

「うん」

 

「わたしも君のこと、忘れないからね」

 

「うん」

 

「来年も蛍を見にいこう」

 

「うん」

 

「君の実家にも行こう」

 

「うん」

 

「また、みんなでアイス食べようよ」

 

「うん」

 

「だから、いなくならないで。わたし、こんなの嫌だよ……」

 

大丈夫だよ、とは言えなかった。

 

僕は嘘を吐くのが苦手だから。

 

「あのさ」代わりに僕は彼女にひとつお願いをした。「歌を歌ってほしいんだ」

 

「歌?」

 

「もっと君の声が聞きたいんだ」

 

「そう」彼女は素っ気ない返事の後に咳き込み、

 

「ワンス・ゼア・ワズ・ア・ウェイ」とへたくそな英語で歌い始めた。

 

子守唄にはぴったりの歌だ。

 

「へたくそな英語だね」おかしくて笑いが零れそうになるが、

 

同時に、それはとても愛しく思えた。

 

その細い身体をぐちゃぐちゃに汚してやりたいほど、愛しい。

 

柔らかい唇を貪って、綺麗な彼女の内側に

 

僕の汚いそれを吐き出してやりたいほど、――愛しい?

 

「うるさい」彼女は僕を黙らせると、「トゥ・ゲット・バック・ホームワード」と続ける。

 

二分もしないうちに彼女はその曲を歌い終わったが、次の曲は歌ってくれなかった。

 

限界が来たのか、それともわざと歌わなかったのか。

 

僕は、ほとんど限界だった。

 

結局、僕の身体が彼女の身体に覆いかぶさることはなかった。

 

身体が、動かない。

 

そのまま瞼を下ろし、たくさんの優しい別れに包まれながら、

 

心臓の鼓動が止まったような深い眠りに落ちた。

 

 

黄金の微睡みの中で、とても綺麗な夢を見た。

 

彼女がウェディングドレスを着て、誰かと歩いている、夢。

 

彼女の隣には二本の脚で立つ男がいて、ふたりは笑っている。

 

誰もが手を叩き、そのふたりを祝福する中、

 

僕は車椅子に座り、遠くから漫然とそれを眺めている。

 

これでいいんだ。これが僕の望んでいたことなんだ。

 

そう自分に言い聞かせるも、幸せそうな彼女と

 

顔も知らない男のことを想うと、頬があたたかい何かで濡れた。

 

夢というのは、目に映るものよりも

 

鮮明に

 

現実を見せつけてくれることがある。

 

僕は、目指したものにはなれないんだ。

 

 

昔から気になってたことがある。

 

耳が機能しなくなると、自分の声も聞こえなくなるのかということだ。

 

気にはなっていたが、調べてまで知ろうとは思わなかった。

 

でも、ようやく分かった。

 

自分の声は、聞こえない。

 

もちろん、彼女の声も。

 

あの日から毎日歌ってくれている歌も、もう聞けないんだ。

 

骨が揺れているのが分かるだけで、何も聞こえやしない。

 

なあ。君はそこにいるのかな。

 

僕の声は、君に聞こえてるのかい?

 

僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ。

 

あたたかい。彼女の手が、僕の手を弱々しく握った。

 

柔らかくて、優しくて、心地良い。

 

それだけがあればいいと、そう感じさせてくれる。

 

彼女は今日も、僕の頭の中の小さな世界を救ってくれている。

 

今が何月何日で、何時何分なのか、そんな事はどうでもよかった。

 

彼女は僕の隣にいてくれている。

 

もう、それだけでいいと感じるんだ。

 

 

僕の中に永遠は存在しない。

 

永遠だと思い込んでいただけで、そんなものは無かった。

 

彼女との思い出も、彼女のぬくもりも、

 

彼女と初めて出会ったときのことも、そろそろ頭の中から消える。

 

仕舞いにはここがどこで、自分は誰で、

 

何故、光も音も匂いも味も感覚も無いのかが分からなくなる。

 

痛みは無いが、おそらく内臓もぐちゃぐちゃなのだろう。

 

両脚と片腕の無い身体はほとんど動かないし、

 

声を出すこともできないと分かれば、きっと記憶が壊れた僕は発狂してしまう。

 

彼女に関することだけは永遠だと思い込んでいた。

 

でも、声も匂いも、すでに思い出せない。

 

きっと今は、僕の手を握ってくれているんだろう。

 

神様が気を利かせて、この手だけを残しておいてくれたのかも。

 

救ってはくれなかった。

 

でも、分かるんだ。

 

彼女は僕の四肢のうち、唯一残った右手を

 

壊れそうなくらいに強く握ってくれてる。

 

感じるんだ。

 

目を閉じれば、

 

彼女のぬくもりが聞こえて、

 

彼女の声の匂いがして、

 

彼女の香りが見えるんだ。

 

僕は大丈夫だよ。もう、大丈夫だ。

 

なあ、そこのあんた。

 

僕の声が聞こえてるんだろう?

 

最期の頼みがあるんだ。

 

僕が駄目になる前に、

 

まだ正気を保てているうちに、

 

言っておかなきゃならない。

 

――彼女をよろしく。

 

誰かの慟哭が、聞こえる――

 

おしまい

 

 

 

引用元:
男「僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ」
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/internet/14562/1370875358/

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